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第二十一話「村瀬あかりの、夜」

 二次会というのは、行くか行かないかの判断を迫られる前に、気づいたら参加していることが多い。

 今夜もそうだった。


 竹内の歓迎会の一次会が終わったのが九時で、「二次会どこ行く」という話になった時、誠は「俺はそろそろ」と言おうとした。

 言おうとしたが、言う前に隣にいたあかりが「田村さんも来てください」と言い、誠は「……あ、はい」と言った。

 二十三年間変わらない体質だった。


 二次会の店は居酒屋だった。

 一次会の店から歩いて三分で、こぢんまりした店だった。

 カウンターと小上がりが二つという構造で、総勢六人のグループは小上がりに押し込まれた。


 しばらくはにぎやかだった。

 若手三人が竹内を中心に盛り上がり、あかりが笑いながら相槌を打ち、誠はビールを飲みながらその輪の少し外側にいた。

 誠の定位置だった。

 どこの飲み会でも、誠は輪の少し外側にいる。

 外側にいながら、でも参加している。

 そういうポジションを二十三年間続けてきた。


 十時を過ぎたころ、若手の社員たちが「三次会行こうぜ」という話になった。

 誠が「俺はここで」と言うと、誰も引き止めなかった。

 竹内だけが「田村さん、お疲れ様でした」と言い、みんな店を出た。

 残ったのは、誠とあかりの二人だった。


 二人になったのは、偶然だった。

 偶然だったが、なんとなく気まずくもなかった。

 誠とあかりは、これまでも二人で飲んだことが何度かある。

 会社帰りの居酒屋で、特に深い話もなく、仕事の愚痴を話しながら、適当な時間に解散する。

 いつもそういう感じだった。

 今夜もそういう感じになるはずだった。

 なるはずだったのだが。


「田村さんって」とあかりが言ったのは、三杯目のレモンサワーの途中だった。

「うん」

「元カレに似てるんですよね」

 誠は、ビールグラスを口に運んだまま、止まった。

 止まって、そのままの姿勢で三秒固まった。

 固まった後、ゆっくりグラスをテーブルに置いた。

 頭の中で何かが言った。

「……え?」

「……そうなんですか」と誠は言った。

 声は、わりと平静だった。

 平静に聞こえた、と誠は思う。

 内側はまったく平静ではなかったが、外側はわりと平静だった。

 二十三年間の会社員生活で磨かれた、感情を顔に出さない技術が今初めて役に立った。


「聞かないんですか」とあかりが言った。

「……聞いていいんですか」

「……聞かれなかったら話せないじゃないですか」

 誠は「……じゃあ、聞いてもいいですか」と言った。

 あかりが「どうぞ」と言い、レモンサワーを飲んだ。


 あかりが話し始めたのは、ゆっくりだった。

 最初は「元カレ」という言葉が何を指すのかも、あいまいなままだった。

 特定の一人なのか、複数の誰かなのか。

 誠には判断がつかなかった。

 聞き返せなかったので、黙って聞いていた。


「なんか、頼まれたら断れない人で」とあかりが言った。

「……うん」

「いつもちゃんと来てくれるんですよ。頼んでもいないのに。呼んだわけでもないのに、気づいたら近くにいて」


 誠はビールを飲んだ。

「それが、なんか」とあかりが続けた。

「どうしても好きになれなくて」

 誠はビールを飲みながら、飲んでいる場合かという気もした。

 でも飲んでいないと手持ち無沙汰だったし、飲んでいた方が顔を上げなくて済んだ。


「……好きになれなかったのは、なぜですか」と誠は言った。

 自分が言うべき言葉かどうか、よくわからなかった。

 でも黙っているわけにもいかなかった。


 あかりが少し考えた。

「……怖かったんだと思います」

「怖い」

「そういう人って、優しいんですよ。断れないから、頼まれたことは全部やる。来てほしいと言ったら来る。助けてほしいと言ったら助ける。でも、それが怖くて」

「……怖い理由が、わからないんですが」

 あかりがレモンサワーのグラスを両手で持った。

「……本当に必要とされてるのか、わからなくなるから」

 誠は、何も言えなかった。

 言えなかったので、ビールを飲んだ。

 飲みながら、「……今、俺が言うべき言葉は何なのか」と考えた。

 考えたが、出てこなかった。

 そういう時に限って、二十三年間の社会人経験が一切役に立たなかった。


 しばらく、二人は黙っていた。

 居酒屋のBGMがかすかに流れていた。

 カウンターの方で、店主が何かを洗う音がした。


 あかりがお通しのだし巻き卵に箸をつけた。

「……美味しいですね、これ」

「……うん、美味しいね」

 二人でだし巻き卵を食べた。

 それだけで、少し場の空気が変わった。


「田村さん」

「うん」

「怒りました?」

 誠は「怒らないよ」と言った。

 即答だった。

「……なんで怒るんですか」

「なんか、失礼なこと言ったかなって」

「失礼ではないと思います」

「でも、似てるって言われたら、普通は」

「……似てると言われたことより、その後の話の方が気になりました」

 あかりが「後の話」と繰り返した。

「好きになれなかった、という」

 あかりがまたグラスを持った。

 レモンサワーが、もう残り少なかった。


「……別れたのは、私から言い出したんです」

「……そうですか」

「三年付き合って、私から終わりにした。向こうは、たぶん今でも理由がわかってないと思います」

「……言わなかったんですか、理由」

「言えなかった。言っても伝わらない気がして。怖いから別れる、って言っても、相手は何が怖いのか理解できないだろうし」


 誠はだし巻き卵の最後の一切れを、しばらく見た。

「……俺に似てる、という話と、今の話は」

「……繋がってます」

 あかりがきっぱりと言った。

 誠は「……そうですか」と言い、だし巻き卵を食べた。

 食べながら、「俺は今、どういう立場でこの話を聞いているんだ」という問いが浮かんだ。

 浮かんで、答えが出なかった。

 ただの先輩社員として聞いているのか、元カレに似た存在として聞いているのか、それとも全然別の何かとして聞いているのか。

 判断がつかなかった。

 判断がつかなかったが、この話を聞き流す気にはなれなかった。


「田村さん」とあかりがまた言った。

「うん」

「田村さんは、なんで断れないんですか」

 誠は少し考えた。

「……わからないです。昔からそうで」

「怖くないんですか、断れないことが」

「怖いというより、断り方が体に入っていないというか」

「……それって、怖くないってことですか」

「……どうなんだろう」


 誠は本当にわからなかったのでそう言った。

 怖いのかどうか、自分でも確かめたことがなかった。

 ただ頼まれたら行って、呼ばれたら来て、それを二十三年間続けてきた。


「あかりさんが怖かったのは」と誠は言った。

「あかりさん」と呼んだのは、二人きりの場で、たぶん今夜が初めてだった。

 あかりが少し顔を上げた。

 誠は構わず続けた。


「……本当に必要とされてるかわからない、ということでしたよね」

「……はい」

「俺は、それをあまり考えたことがないかもしれないです。必要とされてるかどうかじゃなくて、目の前の人が困ってたら行く、それだけで」


 あかりがグラスを置いた。

「……それって」とあかりが言い、少し間を置いた。

「羨ましいですね」

 誠は「羨ましい?」と聞き返した。

「考えなくていい分、楽じゃないですか」

「……楽かどうかは、よくわからないです。ただ気づいたらそうなってることが多いので」

「それが怖くないのが、羨ましいんです」

 誠はそれを聞いて、何か返そうとした。

 返しかけて、止まった。

 止まったのは、言葉を探した結果ではなく、あかりの顔を見たからだった。


 あかりは下を向いていた。

 グラスを両手で持って、中の氷を見ていた。

 いつものサバサバした顔ではなかった。

 感情を外に出さない、あのいつもの表情ではなかった。

 少し、違った。

 違う、ということが、誠にはわかった。

 わかっただけで、何もできなかった。


 十一時を過ぎたころ、あかりが「そろそろ」と言った。

 誠は「うん」と言い、伝票を取った。

「割り勘でいいですよ」とあかりが言った。

「……いいです、俺が」

「なんで」

「……なんとなく、今日は」

 あかりが少し誠を見た。

「……ありがとうございます」

 誠はレジで支払いを済ませた。

 店を出ると、十一月の夜の空気が冷たかった。


 駅まで少し歩いた。

 並んで歩いたが、特に話さなかった。

 話さなくても、気まずくなかった。

 それが誠には少し不思議だったが、不思議と思う前に駅の改札が見えてきた。


「田村さん」

「うん」

「今日、聞いてくれてありがとうございました」

「……俺、あまりちゃんとした返事ができなくて」

「それでよかったです」

 誠はその「それでよかった」の意味を、少し考えた。

「……それで、というのは」

「ちゃんとした返事じゃなくて、ちゃんと聞いてくれてたから」

 誠は何も言えなかった。

 言えなかったが、あかりはもうそれ以上何も言わなかった。

 改札に向かって歩き出した。


「おやすみなさい」と言い、改札を通った。

 誠は「……おやすみなさい」と言い、その背中を見た。

 いつも通りの背中だった。

 でも今夜のあかりは、いつものあかりとは少し違うあかりだった。

 どこが違うのかを言葉にしようとすると、うまくできなかった。

 改札の向こうに、あかりが消えた。


 誠は帰りの電車の中で、ずっと考えていた。

 考えていた、というより、頭が勝手に動いていた。

 止めようとしても止まらなかった。

 元カレが誠に似ている。

 その元カレを、あかりは自分から終わりにした。

 理由は「怖かったから」。

 本当に必要とされているかわからないから。

 誠はその三つを頭の中に並べた。

 並べて、それがどういう意味を持つのかを考えた。

 考えたが、結論が出なかった。

 結論を出そうとすること自体が、正しいのかどうかもわからなかった。

 ただ一つだけ確かなことがあった。

 あかりは今夜、誠に話した。

 誰かに話すようなことではないことを、誠に話した。

 それは誠が「元カレに似ている」からなのか、それとも別の理由があるのか、やはりわからなかった。


 電車が揺れた。

 誠は窓の外の暗い景色を見た。

 今夜のあかりの顔を、思い出した。

 グラスを両手で持って、氷を見ていたあの顔を。


「聞き流せなかった」と誠は思った。

 今夜の話は、全部聞き流せなかった。

 それだけはわかった。

 それが何を意味するのかは、今夜はもう考えないことにした。


 電車が最寄り駅に着いた。

 誠は立ち上がり、ドアを出た。

 夜の空気が冷たかった。

 胸のどこかが、まだ少し温かかった。

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