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第二十話「卵焼きが、戻ってきた」

 家族というのは、不思議な生き物だと誠は思う。


 職場の人間関係なら、距離の取り方に多少の自由がある。

 苦手な人とは必要最低限の会話にとどめることができるし、合わないと思えば席を離れることもできる。

 でも家族はそうはいかない。

 食卓が同じで、風呂が同じで、洗面台が同じだ。

 距離を取りたくても、廊下の幅が許さない。


 だから家族との関係というのは、どこかでほつれると、ほつれたままじわじわと続く。

 修復しようとしても、きっかけがつかめない。

 謝るほどのことでもないし、話し合うほどのことでもない。

 ただほつれたまま、日常が流れていく。

 誠と佳代の間に、この二ヶ月ほどそういう状態が続いていた。

 続いていたのだが。


 今朝、誠が台所に行くと、佳代が弁当を作っていた。

 それは先週から続いていることで、珍しくはなかった。

 珍しくはなかったのだが、今朝は違うことが一つあった。

 弁当箱の隣に、もう一つ弁当箱があった。

 誠のより一回り小さい、颯太の弁当箱だった。

「……颯太の弁当も作ってるの?」

「文化祭の準備で、お昼が外になるって言ってたから」

「……そうか」

 それだけだった。


 佳代はまた黙って弁当を詰めた。

 誠も黙って椅子に座った。

 誠が起きてくる前から、佳代は台所に立っていたのだろう。

 窓の外はまだ薄暗かった。

 弁当箱の蓋が閉められる前に、誠はまた見てしまった。

 卵焼きが入っていた。

 二切れだった。

 ただの二切れだった。

 先週の土曜日が三切れで、その後の月曜日も二切れで、今日も二切れだった。

 三切れが特別で、二切れが普通、という基準に、いつの間にかなっていた。

 普通に戻ってきた、ということだった。


 普通というのは、当たり前ではない。

 少し前まで、誠の弁当に卵焼きは入っていなかった。

 入っていない時期がしばらく続いて、それがいつの間にか戻ってきていた。

 戻ってきた理由を誠は聞いていないし、佳代も説明していない。

 説明しないことが、佳代の流儀だと誠は知っていた。


 颯太が起きてきたのは七時少し前だった。

 制服姿で台所に入ってきて、冷蔵庫を開けて麦茶を出した。

 コップに注いで、一気に飲んだ。

 それから弁当箱が二つカウンターに並んでいるのを見た。

「あ、俺のもある」

「当たり前でしょ」と佳代が言った。

 颯太が弁当箱を手に取り、ぱかっと開けた。

「卵焼き多くね?」

「二切れよ、普通でしょ」

「いつもは一切れじゃん」

「気のせいでしょ」

 颯太が「……そっか」と言い、弁当箱を閉めた。

 疑うでも納得するでもない、高校生の「そっか」だった。

 そのまま自分の鞄に弁当箱を入れて、「行ってきます」と言い、玄関に向かった。

 誠は「……行ってらっしゃい」と言った。

 颯太が振り返らずに「うん」と言い、ドアが閉まった。


 台所に、佳代と誠の二人が残った。

 佳代は何も言わなかった。

 誠も何も言わなかった。

 佳代がフライパンを洗い始めた。

 シンクに水が流れる音がした。

 誠は弁当箱を手に取った。

 温かかった。

「……ありがとう」と誠は言った。

 声に出した。

 佳代の手が、一瞬止まった。

 止まってから、また動いた。

「別に」と佳代は言った。

 先週のアイロンの時と同じ言葉だった。

 でも今朝の「別に」は、先週の「別に」より少しだけ柔らかかった。

 気のせいかもしれなかった。

 気のせいではないかもしれなかった。

 誠は弁当箱を鞄に入れた。

 重さが、温かかった。


 電車の中で、誠はぼんやりと吊り革を持っていた。

 座席が空いていたが、なんとなく立っていたかった。

 扉のそばに立って、窓の外を見た。

 十一月の朝の景色が、ゆっくり流れていった。


 今朝の颯太の「そっか」を、誠は思い出した。

 颯太とまともに話したのはいつだったか。

 模試の結果を聞いたのも、佳代から聞いた。

 颯太が何を考えているのか、進路をどう考えているのか、誠はほとんど知らなかった。

 知らないまま過ごしてきた。

 仕事が忙しかったから、という言い訳はあるが、それが言い訳であることも知っていた。

 颯太が幼い頃は、もう少し話していた気がする。

 土曜日に公園に連れて行ったこと、夏休みに海に行ったこと、誠が作ったカレーを颯太が「辛い」と言って泣いたこと。

 そういう記憶は確かにあるのに、いつの間にか颯太は高校生になっていて、誠は会話の糸口を失っていた。


「行ってきます」に「うん」で返すだけの関係になっていた。

 誠は「……俺、颯太のこと何も知らないな」と思った。

 思いながら、「でも今朝、颯太に弁当が作られていた」とも思った。


 佳代が颯太の弁当を作ったのは誠のためではない。

 颯太のためだ。

 でも、二つ並んだ弁当箱を見た時、誠は何か温かいものを感じた。

 家族というのは、自分に向けられていない優しさにも、なぜか温かみを感じてしまう生き物らしかった。


 電車が駅に止まった。

 人が乗り降りした。

 また動き出した。


 会社に着いて、誠はいつも通りコーヒーを淹れた。

 人数を確認して、目分量で豆を量った。

 今日は十人分だった。

 営業支援部への異動まで、あと二週間と少しだった。

 この給湯室でコーヒーを淹れるのも、残り回数が見えてきた。


 一人ずつに届けて回った。

 本庄部長の分を置いた時、部長が「……田村くん」と言った。

「はい」

「次の打ち合わせ、来週の火曜になった。乾さんから連絡が来た」

「わかりました」

「準備、しておいてくれ」

「はい」

 それだけだった。

「準備」が何を指すのかは、具体的には言われなかった。

 でも誠にはわかった。前回の会議の議事録を整理して、積み残した論点を確認して、乾が過去に話していた内容を頭の中で並べ直す。

 それが誠の「準備」だった。

 他の誰かの「準備」とは、たぶん少し違う。

 でも今は、それでいいと思っていた。


 昼休み、誠は自席で弁当を食べた。

 蓋を開けると、卵焼きが入っていた。

 二切れ。

 いつも通りの二切れ。

 誠は箸を持ちながら、朝の台所を思い出した。

 二つ並んだ弁当箱。

 颯太の「卵焼き多くね?」。

 佳代の「気のせいでしょ」。

「気のせいでしょ」は、気のせいではなかった。

 佳代はわかっていて言っていた。

 颯太には「気のせい」で済ませて、誠には何も言わなかった。

 何も言わない伝え方が、佳代の伝え方だった。

 誠は「……ありがとう」と、もう一度思った。

 今度は声に出さなかった。

 出さなくても、たぶん届いている気がした。

 届いているかどうかは、わからない。

 でも二十三年間連れ添って、佳代が何も言わずに弁当を作り続けてくれた時間のことを、誠は今日初めてちゃんと考えた気がした。

 考えながら、卵焼きを食べた。

 甘かった。

 いつも通りの甘さだったが、今日は少し違う甘さだった。


「……田村さん」

 声がして、誠は顔を上げた。

 あかりが、誠の近くに立っていた。

「はい」

「弁当ですか」

「……そうです」

「美味しそうですね」

「……妻が作ってくれて」

 あかりが少し笑った。

 声に出さない笑いだったが、目に出ていた。


「よかったですね」

「……はい」

「本当によかったですね」

 繰り返し方が、確認するような言い方だった。

 誠は「……はい」とまた言った。

 一回目と二回目の「はい」の間に、何かが少し変わっていた。

 あかりは「お疲れ様です」と言い、給湯室の方に歩いていった。

 誠はその背中を少し見て、また弁当に視線を落とした。


 竹内が「田村さん」と言ったのは、その直後だった。

「何」

「……なんか今、いい顔してましたけど」

「してない」

「してましたよ。弁当見ながら」

「……弁当が美味しいので」

「それだけですか」

「それだけだよ」

 竹内が「……そうですか」と言い、自分の席に戻っていった。

 誠はもう一切れの卵焼きを口に入れた。

 やっぱり甘かった。

 甘い理由が卵焼きにあることは間違いなかったが、それだけではない気もした。

 それだけではないとしたら何なのか、誠には言語化できなかった。

 できなかったが、食べ終わったら仕事に戻った。

 それで十分だった。


 帰り際、誠は給湯室でコーヒーの器具を洗いながら、今日一日を思い返した。

 本庄部長の「準備しておいてくれ」。

 あかりの「よかったですね」。

 竹内の「いい顔してましたけど」。

 そして朝の、二つ並んだ弁当箱。

 いつもと違うことが、いくつかあった。

 でも誠の一日は、だいたいいつも通りに流れた。

 コーヒーを淹れて、書類を整理して、議事録を取って、弁当を食べて、また書類を整理した。

 それだけのことだった。

 それだけのことなのに、帰り道の足が、少し軽かった。

 軽い理由が何なのかは、歩きながら考えた。

 考えたが、一つに絞れなかった。

 強いて言えば、全部少しずつだった。

 卵焼きが戻ってきたことと、佳代が「別に」と言ったことと、颯太の弁当箱がカウンターに並んでいたことと、あかりが「よかったですね」と二回言ったことと。

 全部少しずつ。

 誠はそれを「まあ、こんなもんだろう」と思った。

 大きな変化じゃなくていい。

 ドラマチックじゃなくていい。

 卵焼きが一切れ増えて、「別に」が少し柔らかくなって、それで十分だと思えること自体が、誠にとっての変化だった。


 駅の改札を抜けながら、誠は「明日も淹れよう」と思った。

 コーヒーのことだった。

 それと同時に、もう一つのことも思った。

 明日、颯太に何か話しかけてみよう。

 何を話すかは、まだわからなかった。

 でも「行ってきます」に「うん」で返すだけじゃなくて、もう一言、何か。

 それだけでいい。

 一言だけでいい。


 誠は電車に乗りながら、「一言って何だろう」と考え始めた。

 考えているうちに、最寄り駅に着いた。

 まだ一言は思いついていなかった。

 まあ、明日また考えよう。

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