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第十九話「本庄部長の沈黙」

 月曜日の朝というのは、いつも同じ顔をしているようで、少しずつ違う。

 誠はそれを二十三年間感じてきた。

「また月曜日か」という月曜日もあれば、「今週はなんとかなりそうだ」という月曜日もある。

 前の週に何があったかで、月曜日の空気が変わる。


 今日の月曜日は、少し違った。

 何が違うのかを言語化しようとすると難しいのだが、強いて言えば「自分の席に向かう廊下の感触」が違った。

 感触、というのは比喩だ。

 廊下はいつも通りのリノリウムで、変わっていない。

 でも誠の足が、少しだけ軽かった。

 原因はたぶん、土曜日の会議だ。


 あの会議で何かが変わったのかどうか、誠にはまだよくわからない。

 ただ確実に言えることは、コーヒーを淹れている時に本庄部長が給湯室に来て、何も言わずにコップだけ持っていった、ということだった。

 それだけだった。

 それだけだったが、部長が自分でコップを取りに来たのは、誠の記憶では初めてだった。


「田村さん」と竹内が来たのは、午前十時ごろだった。

 誠が取引先への報告書を作っていると、竹内が誠の席の横にしゃがんで、声を潜めた。

「……見ました?」

「何を」

「部長の議事録」

 誠は「議事録?」と言った。

「先週金曜の部内会議の議事録、部長が自分で作ったやつです。さっき共有フォルダに入ってて」

「……部長が自分で?」

「はい。田村さんいなかったじゃないですか土曜日」

「……うん」

「それで部長が自分でやったみたいなんですけど」

 竹内が少し間を置いた。

「……見た方がいいと思います」


 誠はファイルサーバーを開いた。

 共有フォルダの「議事録」というフォルダの中に、「会議メモ(暫定)20241108_HM」というファイルがあった。

 HMというのはおそらく本庄の頭文字だった。

 クリックした。

 開いた。

 誠は三秒間、画面を見た。


 議事録というのは、一般的に、日時・出席者・議題・内容・決定事項という構成で作られる。

 目の前のWordファイルは、その構成を遠くから眺めたことはあるのだろうが、近づいたことはないという風体だった。

 日時のセルが結合されたまま解除されておらず、出席者の名前の一部が文字化けしていた。

 箇条書きのインデントが四段階あり、それぞれ意味が違うのか同じなのかが判別できなかった。

 ページの途中から突然フォントサイズが十六ポイントになっており、最後の三行だけがなぜか右揃えになっていた。

 ページをスクロールすると、下の方に「要確認(田村くんに聞く)」というメモが五箇所あった。

 誠はそのメモを見て、何かが胸に来た。

 来たが、笑いなのか感動なのか、よくわからなかった。


「……これ、日本語ですよね?」と竹内が言った。

 誠の画面を覗き込みながら、本当に確認するような声だった。

「……日本語だよ」

「ですよね。なんか急に不安になってきて」

「読めないことはない」

「読めることと、内容が理解できることは別だと思います」

 誠は「……まあ、そうだね」と言った。

 誠はそのファイルを閉じ、少し考えた。

 考えてから、新しいWordファイルを開いた。


 先週金曜の部内会議の内容は、誠も出席していたから覚えていた。

 覚えていたというより、聞き流せなかったから、そのまま頭に入っていた。

 議題が三つ、決定事項が二つ、宿題が四つ。

 それを誠は三十分で整理して、きれいな議事録にまとめた。


 完成したものを印刷して、本庄部長の席に持っていった。

 部長は電話中だった。

 誠は書類を机の端に置こうとした。

 部長が電話を持ったまま、誠の方を見た。

 誠は「……先週金曜の議事録、直しておきました」と小声で言い、書類を置いた。

 部長は受話器を持ったまま、何も言わなかった。

 誠が席に戻ろうとした時、背中で「……田村くん」という声がした。

「はい」と誠は振り返った。

 本庄部長は受話器を肩と耳の間に挟んだまま、誠の方を見ていた。

 電話はまだ続いているようだった。

 何かを言おうとして、言わなかった。

 少しの間があった。

「……まあ、あれだ」と部長は言った。

 それだけだった。


「あれだ」の後が来なかった。

 部長はまた電話に戻った。

 誠は「……はい」と言い、自分の席に戻った。

「あれだ」が何を指しているのか、誠にはわからなかった。

 わからなかったが、何かを言おうとしたこと自体は伝わった。

 それで十分だと、誠は思った。


 昼休み、誠は自席で弁当を食べていた。

 月曜日だったが、佳代は弁当を作っていた。

 最近は週に三回か四回、作ってくれることが多い。

 増えた理由については、お互い何も言っていない。

 言わなくてもいい種類のことだと、誠は思っていた。


 弁当を開けると、卵焼きが入っていた。

 二切れだった。

 土曜日が三切れで、今日が二切れだった。

 特別な日と普通の日の差が一切れで表現されている。

 誠はその一切れの差を、少しだけ愛おしいと思った。

 愛おしい、という言葉が自分の中から出てきたことに、誠自身が少し驚いた。

 二十三年間連れ添って、今さら「愛おしい」を発見するのか、という話だが、たぶん人間というのはそういうものだ。

 箸を進めながら、誠は窓の外を見た。

 十一月の昼の空が、薄い青だった。


「……田村さん」

 声がして、誠は振り返った。

 あかりが、誠の斜め後ろに立っていた。

 自分の席から来たのか、それとも給湯室から戻る途中なのか、どちらかはわからなかった。

「はい」

 あかりは誠の顔を、少し見た。

「……今日、いい顔してますね」

 誠は「そう?」と言った。

 あかりが「……うん」とだけ言って、自分の席に戻っていった。

 背中が、いつも通りの背中だった。

 サバサバしていて、感情を表に出さない、いつものあかりの後ろ姿だった。


 誠は箸を持ったまま、しばらくその背中を見た。

「うん」という返事だった。「はい」ではなく、「そうですね」でもなく、「うん」だった。

 誠が「うん」と返したのは先週の土曜日の朝で、あかりが「うん」と返したのは今日だった。

 その一致が、偶然なのかどうか。

 誠には判断がつかなかった。

 ただ、弁当の卵焼きが少し甘く感じた。

 甘く感じた理由が卵焼きにあるのか、別のところにあるのか、それもよくわからなかった。


「……田村さん、飯食いながら泣くんですか?」

 竹内の声がした。

「泣いてない」

「目、うるうるしてます」

「してない」

「してますよ、絶対」

 誠は「……日光が眩しいだけだよ」と言った。

 竹内が「北向きの窓なのに」と言った。

 誠は「……そういうこともある」と言い、卵焼きを口に入れた。


 午後、誠が書類の整理をしていると、本庄部長がまた給湯室に向かうのが見えた。

 誠は少し考えて、立ち上がった。

 給湯室に行くと、部長がコーヒーメーカーの前で腕を組んでいた。

 コーヒーメーカーを睨んでいる、という表現が正確かもしれない。

 営業部に去年導入された最新機種で、誠もまだ操作に自信がなかった。

 部長はなおさらのようだった。


「……お淹れしますか」と誠は言った。

「……頼む」と部長は言った。

 誠はコーヒーメーカーの横のドリッパーを出して、いつも通りの段取りを始めた。

 フィルターをセットして、豆を目分量で量った。

 お湯が沸くまでの間、給湯室は静かだった。


 部長が「土曜日の件」と言った。

「はい」

「乾さんから連絡が来た」

「……そうですか」

「田村くんが同席したことは聞いた」

「ご報告が遅れてしまって、申し訳ありません」

「謝らなくていい」

 部長が言った。

 珍しい言い方だった。

 誠に向かって「謝らなくていい」と言ったのは、本庄部長の口から初めて聞く言葉だった。

「……次回の打ち合わせも、田村くんに出てほしいと、乾さんが言っていた」

「……次回も、ですか」

「そうだ。俺はそれでいいと思っている」


 お湯が沸いた。

 誠はゆっくりとお湯を注いだ。コーヒーの香りが給湯室に広がった。

「……ありがとうございます」と誠は言った。

「何がだ」

「……いろいろ、と言いますか」

「なんだそれは」

「……私も、うまく言えないので」

 部長が小さく息を吐いた。

 呆れているのか、笑いをこらえているのか、その中間なのか、誠には判断できなかった。


 コーヒーが落ちた。

 誠はカップに注いで、部長に渡した。

「……田村くん」

「はい」

「お前のコーヒーは、まあ」

 また「あれだ」が来るのかと思った。

「……悪くない」

 部長はそれだけ言い、カップを持って給湯室を出た。

 誠はしばらく、その背中を見た。

「悪くない」だった。

 二十三年間で初めて、本庄部長から「悪くない」と言われた。

「よくやった」でも「ありがとう」でも「すごい」でもなく、「悪くない」だった。

 でもそれは、本庄部長にしか言えない言葉だと、誠には思えた。


 悪くない、という言葉の中に、たくさんのものが入っていた。

 誠は自分のコーヒーをカップに注いで、ひとくち飲んだ。

 いつも通りの味がした。

 それが今日は、少しだけ特別だった。


 帰り道、誠はいつもの道を歩いた。

 特に急ぐこともなく、寄り道をするでもなく、ただ歩いた。

 十一月の夜は冷えていて、吐く息が少し白かった。

 歩きながら、誠はこの一週間を思い返した。

 乾からの電話。

 佳代の「行かなくていいでしょ」。

 卵焼き三切れ。

 アイロンをかけてもらったスーツ。

 あかりの「行ってらっしゃい」。

 会議室の重い空気。

 桜餅。

「聞いてくれていたんだな」という乾の声。

 たくさんのことがあった。

 たくさんあったのに、誠はそのどれを「俺がやった」と胸を張って言える気がしなかった。

 聞いただけだった。

 覚えていただけだった。

 並べただけだった。

 それでも何かが変わった気がした。


 変わったのが何なのかは、まだわからない。

 わからないまま歩いていると、駅に着いた。

 改札を通りながら、誠は「明日もコーヒー淹れよう」と思った。

 決意でも意地でもなく、ただそう思った。

 それだけで、今日は十分だった。

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