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第十八話「誠、口を開く」

 会議室というのは、入った瞬間に空気の質でだいたいのことがわかる。


 誠の経験則では、会議室の空気は三種類に分類される。

「なんとなく集まっただけ」の空気、「意見が割れている」空気、そして「全員が本気で、かつ全員がピリついている」空気だ。

 三つ目が一番重くて、一番疲れる。

 二時間座っているだけで肩が凝る。

 今日の会議室は、三つ目だった。

 しかも、特上だった。


 会場はホテルの十四階にある会議室だった。

 縦長の楕円形テーブルを挟んで、タチバナ産業側と合併相手の日東物産側が向かい合っている。

 タチバナ産業側には本田副社長と経営企画部長、そして乾と誠の四人。

 日東物産側には社長の田所と営業本部長の広瀬、それから顧問弁護士と思われる小柄な男性の三人だ。


 乾は取引先の部長として、今回の交渉においてタチバナ産業の立場を支持する外部関係者という位置づけだった。

 正確には「双方と取引がある中立的な業界関係者として同席する」という名目で、本田副社長が乾に頭を下げて来てもらっていた。

 誠は乾の隣の端席に座っていた。


 議事録担当という肩書で呼ばれている。

 肩書が「議事録担当」であることは、乾からは一言も言われていなかったが、誠が自分でそう決めた。

 そう決めないと、自分がここにいる理由が説明できなかった。

 ノートを開いて、ペンを持った。

 書く準備だけは、できていた。


 会議が始まって最初の三十分は、予定調和だった。

 各社が現状認識を述べて、合意済みの事項を確認して、本日の議題を改めて共有する。

 タチバナ産業の副社長・本田が「双方にとって最善の着地点を目指したい」と言い、日東物産の社長・田所が「まったく同感です」と言い、全員がうなずいた。


 和やかだった。

 完全に嘘の和やかさだった。


 誠はそれを、テーブルの下で両手をじっと組んでいる参加者たちの手元を見て感じた。

 副社長の本田は手を組むたびに右の親指が左の親指の上に来るようにやり直している。

 それは無意識の動作で、本人は気づいていないと思う。

 日東物産の広瀬は水のグラスに三回手を伸ばして、三回とも飲まずに戻した。

 緊張している人間の手は、正直だ。

 誠だけが、ノートにペンを走らせ続けた。


 四十分を過ぎたころ、空気が変わった。

 合併後の人員配置の話になった瞬間だ。


 日東物産の田所社長が「そこについては、先日お伝えした通り、現体制を最大限尊重する方向で」と言い、タチバナ産業の本田副社長が「最大限、というのが曖昧でして」と返した。

「最大限というのは、たとえば具体的に何パーセントを指しますか」

「それは状況による、と申し上げました」

「状況、というのは」

「合併後の事業展開によって変わります」

「ですからその事業展開の方向性が決まらないと、人員の話ができない」

「逆に言えば、人員の話が固まらないと事業展開も決められない」

 堂々巡りだった。


 誠はその様子を見ながら、ペンを走らせながら、「あ、これ、鶏と卵だ」と思った。

 どちらが先かという問いに、どちらも答えを持っていない。

 持っていないのに、お互いが相手に答えを求めている。


 水を飲まなかった広瀬が、今度はじっと田所社長の横顔を見ていた。

 乾は腕を組んで、無言だった。

 一時間を過ぎたころ、会議は完全に膠着した。


 田所社長が「そもそも今回の合併の目的を、改めて確認したい」と言い出した。

 本田副社長が「それは合意済みのはずでは」と眉を上げた。

「合意の内容に、認識の齟齬があると感じています」と田所が返した。

 場の温度が、一気に下がった。


 顧問弁護士が手元の資料をめくり始めた。

 経営企画部長が乾の方にそっと視線を向けた。

 乾は動かなかった。

 誠はペンを走らせながら、頭の中で何かが動いているのを感じていた。


 田所が言っていること。

 広瀬の顔。

 乾が過去に漏らしていた言葉。

 それらが、別々の引き出しから静かに出てきて、テーブルの上に並び始めた。


 乾がいつかエレベーターの中で呟いていたこと。

「田所さんはな、田村くん、面子を気にする人なんだよ。合併じゃなくて、提携って形なら話が違ったかもしれない」

 誰かに向けた言葉ではなかった。

 独り言のような声だった。

 誠は聞き流せなかったから、覚えていた。


 別の引き出しが開いた。

 広瀬が去年の商談の帰り際に言っていたこと。

「うちの社長、決断は早いんですよ、ただ引き金を誰が引くかにこだわる人で」。


 さらに別の引き出し。

 本田副社長がひと月前の社内会議で言っていたこと。

 誠が議事録を取っていたから、正確に覚えている。

「最終的にはどちらが主導権を持つかという話になる。そこを明確にしないと、現場が動けない」。


 三つの断片が、テーブルの上で揃った。

 誠の手が、止まった。

 誠はしばらく、止まったペンを見ていた。

 発言すべきか。

 すべきでないか。


「議事録担当」は発言しない。

 それが慣習だ。

 この場にいる全員が、誠を「記録係」だと思っている。

 乾でさえ、今日は「聞いてくれればいい」と言っていた。


 ただ。

 頭の中にあるパズルが、完成している。

 完成したパズルを、誰も見ていない。

 誠はペンを置いた。

 置いてから、深く息を吸った。

 会議室の空気を肺に入れた。

 重くて、乾いていて、誰かのコロンの匂いがした。


「……あの」

 誠が言った。

 声は小さかった。

 小さすぎて、最初は誰にも届かなかった。

 田所社長と本田副社長が言い合いを続けていた。


「あの」

 二回目は、少し大きかった。


 乾が最初に気づいた。

 乾の目が誠の方を向いた。

 それに気づいた広瀬が誠を見た。

 田所が話を止めた。

 本田が振り向いた。

 全員の視線が、テーブルの端席の、ノートを持った中年男性に集まった。


「……一点だけ、よろしいですか」

 沈黙があった。

 三秒か、四秒か。


 田所社長が「……どうぞ」と言った。

 促すような声ではなく、反射的に答えた声だった。

 そうしないと会議が終わらない、という空気が田所にもあったのかもしれない。


 誠はノートを見た。

 ノートには発言メモが書かれている。

 ただ読み上げるのではなく、自分の言葉で言わなければならない。


「あの、この一時間でお二人が言っていたことは、たぶん矛盾していないと思うんです」

「……矛盾していない」と本田が繰り返した。

「はい。本田副社長は、主導権の所在を明確にしたい。田所社長は、面子……失礼、主体性を担保したい。その二つは、同じことを違う言葉で言っているだけで」

 誠は少し間を置いた。


「たとえば、合併という形ではなく、タチバナ産業が日東物産さんに事業の一部を委託する形にすれば——日東物産さんは主体として動ける。タチバナ産業は主導権を持ったまま。どちらの条件も、形の上では成立します」


 静かだった。

 誠が発言を終えてから、会議室の全員が止まった。

 本田副社長が、何かを言いかけた。

 言いかけて、止まった。


 田所社長が、広瀬を見た。

 広瀬が田所社長を見た。

 乾が、腕を組んだまま天井を見た。

 誠はノートに視線を落として、ペンを持ち直した。

 誰かが何かを言うのを待った。

 誠の心臓は、かなりうるさかった。

 うるさかったが、それは誠の内側にあることなので、誰にも聞こえていないはずだ。

 はずだ、と思って、念のため姿勢を正した。


 三十秒ほど経って、田所社長が口を開いた。

「……失礼ですが、お名前は」

「田村と申します。タチバナ産業の営業部におります」

「乾さんが連れてきた方ですか」

 乾が「そうです」と静かに答えた。


 田所が「ふむ」と言い、広瀬の方を向いた。

 二人が短くアイコンタクトをした。

 広瀬がわずかにうなずいた。


「……もう少し、聞かせてもらえますか」と田所が言った。

 誠は「はい」と言い、ノートのページをめくった。


 ページをめくりながら、「……なんで俺のノートにこんなに書いてあるんだ」と思った。

 無意識に書き続けていたらしく、ページの三分の二が埋まっていた。

 字は汚かった。

 でも読める。

 誠は読める字を拾いながら、話した。

 緊張しているかどうか、もうよくわからなかった。


 それから四十分で、会議の空気は変わった。

 変わった、というのは大げさかもしれない。

 完全に解決したわけでも、全員が合意したわけでもない。

 でも「堂々巡り」が終わった。

 双方が「この話なら進められるかもしれない」という顔をし始めた。

 本田副社長が「委託という形は、弊社の法務と確認が必要ですが」と言い、田所社長が「うちも内部で検討します。ただ、方向性としては」と言い、広瀬が初めて水を飲んだ。


 誠はその様子を、また書き続けた。

 書きながら「……俺、なんかやったのか」と思った。

 やったのかどうか、自分ではよくわからなかった。

 ただ見えていたものを言っただけで、解決策を作ったのは自分ではない気がした。

 乾が愚痴として漏らしてきた言葉も、広瀬が帰り際に言っていた言葉も、本田が社内会議で言っていた言葉も、全部もとからそこにあった。

 誠はそれを並べただけだ。

 並べた人間が、誠でなければいけなかったのかどうか。

 それもよくわからなかった。

 わからないまま、誠はペンを走らせた。


 会議が「本日はここまで」という雰囲気になったのは、二時間を少し過ぎたころだった。

 次回の日程を決めて、資料を片付けて、各自が立ち上がり始めた。

 誠もノートを閉じて、立ち上がった。

 立ち上がったところで、鞄の中に手が触れた。

 桜餅だった。

 コンビニで買って、ギフト包装してもらって、鞄に入れたまま会議中ずっと存在を忘れていたやつだった。

 誠は少し考えた。


 考えて、鞄から取り出した。

「……あの」

 立ち上がりかけていた田所社長が振り返った。

 本田副社長も見た。

 乾が「田村くん」という顔をした。

「よかったら、これ」

 誠は白い包装紙の袋を、テーブルの中央にそっと置いた。

「桜餅なんですが」

 田所社長が「……桜餅?」と言った。

「はい。コンビニで買ったので大したものではないんですが、その、長い会議でしたので」

 しばらく、誰も何も言わなかった。


 誠は「……やっぱりやめときます」と手を伸ばしかけた。

 その前に、田所社長が笑った。

 笑い声を出したわけではなかった。

 ただ、顔が緩んだ。

 今日の会議で初めて見る表情だった。

 田所の隣の広瀬も、何かをこらえているような顔になった。

 乾が天井を見た。

 本田副社長が口の端を曲げた。


「……頂きます」と田所が言い、袋を手に取った。

「十一月に桜餅というのは」と本田が言った。

「……すみません、なんとなく目に入って」と誠が言った。

「田村さん」と田所が言った。

「はい」

「あなた、面白い人ですね」

 誠は「……そうですか」と言った。

 褒められているのかどうか、よくわからなかった。


「乾さん」と田所が乾に言った。

「はい」

「次の打ち合わせにも、田村さん連れてきてください」

 乾が「……そのつもりです」と言った。

 誠は「えっ」と思ったが、声には出なかった。

 出なかったが、思った。


 エレベーターで乾と二人になった。

 扉が閉まってから、乾が「田村くん」と言った。

「はい」

「……よくやった」

 誠は「……ありがとうございます」と言った。

「なんで桜餅なんだ」

「……なんとなく目に入ったので」

「コンビニで桜餅が目に入るか、十一月に」

「入りました」

 乾が「そうか」と言い、また黙った。

 誠も黙った。


 エレベーターが下に向かって動いていた。

 数字が14から順番に減っていった。

「田村くん」

「はい」

「あの場で君が言ったこと、俺はずっと気づいていなかった」

「……私も、あの場で初めてつながりました」

「そうか」

「乾部長が色々話してくださっていたので」

 乾は何も言わなかった。

 6、5、4、と数字が減った。


「……聞いてくれていたんだな」と乾が言った。

 声が、少し違った。

 乾の声は普段から低くて感情が出にくいが、その一言だけは、少し違った。

 誠は「……聞き流せなかったので」と答えた。

 それだけだった。


 エレベーターが1階で止まった。

 扉が開いた。

 ロビーの光が入ってきた。


 ホテルを出ると、十一月の昼の空気が冷たかった。

 乾は先方のメンバーと少し話があるとのことで、ロビーに残った。

 誠は一人でホテルの外に出た。

 石畳の前に立って、誠はしばらく空を見た。

 曇っていた。

 雨になるかもしれない空だった。


「……俺、何かやったのか」と、また思った。

 やったのかどうか、やっぱりよくわからなかった。

 ただ、会議室に入った時よりも、肩が軽かった。

 軽い理由が、桜餅を置いてきたからなのか、発言したからなのか、それとも鞄の中の荷物が減ったからなのか。

 たぶん全部少しずつだと思うが、一番軽くなった理由は最後のやつではないと思う。


 スマートフォンを出した。

 あかりへの返信が、まだだった。

「行ってきました」と打ちかけて、消した。

「……終わりました」と打ちかけて、消した。

「桜餅、置いてきました」と打って、送った。


 十秒後に既読がついた。

 三十秒後に返信が来た。

「意味わかりません」

 誠は少し笑った。


 声に出さなかったが、確かに笑った。

 石畳の上を、一歩踏み出した。

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