第十七話「最終交渉の朝、スーツがしわしわ」
土曜日の朝に着るスーツというのは、平日に着るスーツとは別の生き物だと誠は思う。
平日のスーツは「着なければならないもの」として体が受け入れているので、とくに抵抗なく袖が通る。
だが土曜日のスーツは「なぜ今日これを着なければならないのか」という微細な抵抗を、ファスナーを上げる指先や、ネクタイを結ぶ手首から感じ取る。
体が正直なのだ。
おまけに今日のスーツは、しわしわだった。
クローゼットの奥に押し込んであった濃紺のスーツを引っ張り出したら、縦横に折り線が入っていた。
いつ押し込んだのか記憶がなかった。
記憶がないということは、少なくとも半年以上前ということだ。
それを今日、最終交渉の場に着ていくことになった。
アイロンをかければいい。
誠はそう思い、アイロン台を出して、アイロンをコンセントに挿した。
アイロンが温まるまでの間に、もう一度クローゼットを確認した。
他に着られるスーツがあるかもしれない。
なかった。
正確には、もう一着あったが、そちらはさらに奥に押し込まれており、引っ張り出した瞬間に「……こっちの方がしわしわだ」と判断した。
アイロンをかけることにした。
「何してるの」と佳代が言ったのは、誠がアイロンをスーツに当てていた時だった。
「アイロン」
「見ればわかるけど、なんで今日の朝に」
「……昨日やればよかったんだけど」
「昨日は深夜まで電話してたもんね」
声に棘があった。
棘があったが、言っていることは事実だった。
誠は「……うん」と言いながらアイロンを動かした。
問題があった。
誠はアイロンをかけるのが、あまり得意ではなかった。
得意ではないというより、下手だった。
丁寧にやっているつもりなのに、なぜかしわが伸びた場所と伸びていない場所がまだらになる。
伸ばした部分を確認しようとアイロンを持ち上げると、生地がアイロンの底面に貼り付いていたりする。
十分くらいかけて上着の前の部分を仕上げて、鏡で確認した。
なんとなく、しわしわのままだった。
「貸して」と佳代が言った。
「いや、俺が——」
「貸して」
二回目の「貸して」は一回目より短かった。
誠はアイロンを渡した。
佳代は無言で、手際よく上着全体を仕上げた。
三分もかからなかった。
鏡で確認すると、しわが消えていた。
誠が十分かけてできなかったことを、佳代は三分でやった。
「ありがとう」と誠は言った。
「別に」と佳代は言い、アイロンのコンセントを抜いた。
それだけだった。
誠は着替えを終えて、台所に行った。
佳代はもうシンクの前に立っていて、弁当箱に何かを詰めていた。
誠は「……弁当、作ってくれてるのか」と思いながら、声には出さなかった。
出したら何か言われる気がしたし、出さなくても伝わっている気がした。
夫婦というのは、二十年経つとそういう通信ができるようになる。
便利なのか、不便なのか、誠にはよくわからない。
佳代は何も言わなかった。
誠も何も言わなかった。
台所の窓から、十一月の朝の光が入っていた。
弁当箱の蓋が閉められる直前に、誠は見てしまった。
卵焼きが、三切れ入っていた。
いつもは二切れだ。
二切れが、今日は三切れになっていた。
ただそれだけのことだった。
佳代は何も言わなかった。
誠も何も言わなかった。
でも三切れは確かにそこにあって、昨夜の「行かなくていいでしょ」と同じ人間が作ったものだった。
人間というのは矛盾した生き物だと、誠はこの年になってまだ学んでいた。
妻について。
そして、自分について。
弁当箱がカウンターに置かれた。
誠はそれを鞄に入れた。
重さが、少し温かかった。
家を出る前に、もう一つ問題があった。
本庄部長への連絡だ。
乾から「明日来てくれ」と言われて「行きます」と答えたのは誠自身だが、誠は今もタチバナ産業の社員であり、社外の人間に呼ばれたからといって、上司に無断で最終交渉の場に乗り込んでいい立場ではない。
本来であれば昨夜のうちに部長に報告して、指示を仰ぐべきだった。
昨夜、それをしなかった。
できなかった、というのが正確だ。
乾との電話が終わったのが深夜零時過ぎで、その時間に部長に電話するのは常識的にどうかと思い、「朝に連絡しよう」と決めた。
決めて、眠れないまま横になっていたら、いつの間にか眠っていた。
つまり今朝、連絡しなければならない。
誠はスマートフォンを持ち、本庄部長の番号を開いた。
時刻は七時十五分。
土曜日の七時十五分に部長に電話をかける。
誠は「……これは正直、嫌われる行為かもしれない」と思いながら、発信ボタンを押した。
呼び出し音が三回鳴った。
「……何」
部長の声は低く、眠そうで、そして明らかに不機嫌だった。
寝ていたのだろう。
土曜日の朝七時に部下から電話がかかってきた人間の声だった。
「田村です。おはようございます、突然申し訳ございません」
「何だ」
「昨夜、乾商事の乾部長から連絡がありまして」
沈黙があった。
三秒の沈黙だった。
「……乾さんから?」
「はい。本日の最終交渉に、同席してほしいとのことで」
「なんで乾さんが田村くんに直接——」
「私にもよくわからないんですが、その、行きます、と言ってしまいまして」
また沈黙があった。今度は五秒だった。
「……田村くん」
「はい」
「お前、自分が何をしたかわかってるか」
「……社外の方に、無断で約束してしまいました」
「そうじゃなくて」部長の声が、少し変わった。
「……乾さんが、お前を指名してきたってことだよ」
誠は何も言えなかった。
「行け」と部長は言った。
「……え」
「行けって言ってる。うちの会社の人間が、先方の部長に名指しで呼ばれた。行かない理由がどこにある」
「……あの、ご迷惑をおかけして」
「迷惑はかけられてない。ただ、次は先に言え。……寝てる時間に電話してくるな」
電話が切れた。
誠はスマートフォンを見た。
「怒られなかった」と思った。
怒られなかったことに少し拍子抜けしながら、誠は玄関で革靴を履いた。
七時半に家を出た。
十一月の朝は空気が冷たかった。
息が白くなるほどではないが、スーツの胸元にひんやりとした空気が入り込んでくる温度だった。
住宅街はまだ静かで、たまに犬を連れた人がすれ違う程度だった。
駅まで十分の道を歩きながら、誠は「今日、俺に何ができるんだ」と考えた。
昨夜も同じことを考えた。
答えは今日も出なかった。
最終交渉の場には、各社の重役たちが集まる。
合併条件の最終確認、利害の調整、どちらにとっても引けない部分の擦り合わせ。
そういう場に、誠が持っていけるものは何か。
交渉力、ではない。
誠に交渉力があるとは思えない。
弁舌、でもない。
誠はどちらかといえば、喋らない方の人間だ。
では何か。
乾部長が今まで誠に話してきたこと。
愚痴として、本音として、時には独り言のように漏らしてきた言葉の数々。
誠はそれを全部聞いていた。
聞き流せなかったから、全部覚えていた。
先方の事情も、自社の事情も、表に出ていない条件の綾も。
パズルのピースが、頭の中に散らばっていた。
それをつなげることが、自分にできるかどうか。
誠にはまだわからなかった。
「……まあ、聞くしかないか」
声に出して、誠はそう思った。
誰かに言ったわけではなく、ただ朝の住宅街に、その言葉が白い息と一緒に出た。
会場は都心のホテルだった。
最寄り駅まで電車で四十分。
乗り換えが一回ある。
誠はいつもの通勤電車より空いている土曜日の車内で、窓の外を見ながら乾が言っていた言葉を頭の中で並べ直した。
「うちも、もう若い人間に任せたいんだよ」
「先方の新社長、俺とは考え方が合わなくてな」
「条件の話じゃないんだ、田村くん。顔の問題なんだよ、最後は」
断片が、並んだ。
つながるかどうかは、まだわからない。
でも、誠の中にある。
忘れていない。
聞き流せなかったから、全部ある。
そのことに、今朝初めて、少し意味を感じた。
乗り換え駅で電車を降り、改札を出たところで、誠は立ち止まった。
コンビニがあった。
なんとなく入った。
飲み物でも買おうと思い、店内を歩いた。
和菓子のコーナーに差し掛かったところで、桜餅が目に入った。
桜餅を手に取った。
特に理由はなかった。
取引先への手土産にしては量が少なすぎるし、そもそも春の菓子を十一月に持っていくのはどういう了見なのか、と誠は自分でも思った。
思ったが、棚に戻さなかった。
「温めますか?」とレジの店員が聞いた。
「……冷たいままで大丈夫です」
「ギフト包装はいかがですか」
「……あ、お願いします」
「プレゼントですか?」
誠はわずかに間を置いた。
「……まあ、そんな感じです」
プレゼントの相手が誰なのかは、誠にも答えられなかった。
ホテルに向かう道を、誠は地図を確認しながら歩いた。
会場まで徒歩七分。
その途中に、タチバナ産業がある。
会場への最短経路は、会社の前を通らない。
地図で確認した時から、それはわかっていた。
だから会社の前を通るとしたら二、三分の遠回りになる。
誠は地図を閉じて、遠回りの道を歩いた。
理由は、自分でもよくわからなかった。
土曜日のタチバナ産業は、当然ながら閉まっていた。
ビルのエントランスシャッターが降りていて、看板だけが淡い光を当てられていた。
誠は足を緩めながら、そのビルの前を通り過ぎようとした。
その時、ビルの脇の小さな植え込みのそばに、人が立っていた。
誠は一瞬、足を止めた。
村瀬あかりが、立っていた。
コートを着て、マフラーを巻いて、両手をポケットに入れていた。
誠に気づいて、顔を上げた。
驚いた顔ではなかった。
待っていた顔だった。
「……なんで」と誠は言った。
あかりは何も言わなかった。
ポケットから手を出して、誠の方へゆっくり近づいた。
誠の右肩のあたりで、あかりの手が止まった。
細い指が、そっと右肩の生地に触れた。
糸くずがついていた。
いつも通り、今日もついていた。
最終交渉の朝も、スーツがしわしわだった朝も、何も変わらずついていた。
あかりの指が、それをつまんで、静かに取った。
風もなかった。
周りに人もいなかった。
十一月の朝の、冷たくて透明な空気の中で、その動作だけがあった。
あかりは指先の糸くずを取って、誠の顔を見た。
何も言わなかった。
一秒、二秒。
それから、静かに言った。
「……行ってらっしゃい」
声が、低かった。
いつものあかりの声より、少し低かった。
言葉の数が少ない分だけ、何かが詰まっていた。
励ましとも、心配とも、少し違う何かが。
誠は、あかりの顔を見た。
いつも通りのあかりの顔だった。
サバサバしていて、感情を表に出さない、いつもの顔だった。
でも目が、少しだけ違った。
目の奥の方が、いつもより静かだった。
静かで、真剣だった。
誠は「うん」と言った。
「はい」ではなかった。
「ありがとう」でも、「わかりました」でもなかった。
「うん」と言った。
二十三年間、この人に何かを言われた時、誠はいつも「はい」か「そうですね」か「すみません」で返してきた。
「うん」と返したのは、今日が初めてだった。
自分でも、言った後で気がついた。
「……行ってくる」
それだけ言い、誠は歩き出した。
数歩歩いてから、振り返りたい気持ちになった。
でも振り返らなかった。
振り返ったら、何かが変わってしまうような気がした。
何が変わるのかはわからなかった。
ただ、今日この朝に振り返るべきではないという感覚が、誠の足を前に向け続けた。
「行ってらっしゃい」が、耳の中に残っていた。
風もないのに、右肩が少し温かかった。
ホテルの前に着いたのは、九時五分前だった。
ロビーに入ると、すでに乾が待っていた。
「田村くん」と乾は言い、誠の顔を見た。
「……いい顔してるじゃないか」
「そうですか」
「緊張してるか」
「……してます」
「正直だな」と乾が言い、かすかに笑った。
「俺もだ」
二人でエレベーターに乗った。
「田村くん、今日は特に何もしなくていい」と乾が言った。
「え」
「聞いてくれればいい。今まで通り、ただ聞いてくれればいい。それだけでいい」
誠は何も答えなかった。
それだけでいい、と言われた言葉が、胸の中の少し広い場所に落ちた。
エレベーターの扉が開いた。
廊下の奥に、会議室のドアが見えた。
誠は桜餅の入った紙袋を、左手で持ち直した。
「……まあ、聞くしかないか」と、もう一度思った。
今度は声に出さなかった。
でも、朝よりも少しだけ、確かな気持ちで思った。




