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第十六話「乾部長からの電話」

 寝る直前というのは、人間の判断力がもっとも低下している時間帯だと誠は思う。


 根拠はない。

 でも経験則として、寝る直前にコンビニで余計なものを買ったり、寝る直前に「あの件、どうなったかな」とメールを確認して眠れなくなったり、寝る直前に翌日の段取りを考え始めて不安になったりということを、誠は二十三年間やり続けてきた。


 その日の夜も、まったく同じパターンに入りかけていた。


 時刻は午後十一時四十分。

 誠はすでに歯を磨いてパジャマに着替え、あとは布団に入るだけという状態だった。

 スマートフォンを置こうとして、なんとなく画面をつけた。

 LINEの通知が一件来ていた。

 差出人は「村瀬あかり」だった。


 誠はしばらく、その通知をじっと見た。

 見ながら、すぐに開かなかった。


 あかりからLINEが来ること自体は珍しくない。

「田村さん、明日の会議は九時からに変更です」

「田村さん、西川課長が資料のフォーマット直してほしいって言ってます」という仕事の連絡が、月に三、四回ある。

 ただ今日は金曜日の夜で、次の月曜日まで特に重要な案件はなかったはずだ。


 つまり、これは仕事の連絡ではないかもしれない。

 仕事の連絡でないとしたら、何なのか。

 誠はその問いの答えを考えることを途中で止めて、画面をタップした。


 村瀬あかり(23:38)

「田村さん、明日の交渉のこと、もし呼ばれたら断らないでください。あなたしかいないと思ってます。」


 誠は、その文面を三回読んだ。

 一回目は意味が入ってこなかった。

 二回目で「明日の交渉」というワードが引っかかった。

 三回目で「あなたしかいない」という部分で止まった。


「明日の交渉」というのは、合併交渉の最終局面を指しているはずだ。

 来週の頭に最終的な条件のすり合わせが予定されていると、誠も噂レベルでは聞いていた。

 でも誠が呼ばれる話は、社内では誰もしていなかった。

 少なくとも誠の耳には届いていなかった。


 なぜあかりが、この時間に、これを送ってきたのか。

 誠は「どう返せばいいんだ」と考えた。


「わかりました」と打つと、何かを約束したことになる。

「ありがとうございます」と打つと、感謝の理由が自分でもよくわからない。

「どういうことですか」と打つと、会話が始まってしまい、寝られなくなる。


 ひとまず既読だけつけて、返信は明日にしよう。

 そう決めて、誠はスマートフォンを裏返した。

 裏返したまま三分間、天井を見た。

 眠れなかった。


 眠れないまま横になっていると、スマートフォンが鳴った。

 着信音だった。


 誠は「佳代か颯太が何か忘れ物を……いや、二人とも家にいる」と思いながら、手探りで画面を確認した。

「乾剛志」と表示されていた。

 誠は画面を二度見た。

 二度見ても「乾剛志」だった。


 時刻は午後十一時五十一分。

 深夜に近いが、深夜ではない。

 でも寝ている人間が多い時間ではある。

 誠はそのまま三秒間固まり、それからベッドを起き上がって廊下に出て、通話ボタンを押した。


「……はい、田村です」

「田村くん。夜分に申し訳ない、起きてたか」

「あ、はい、ちょうど」

「ちょうど起きてたのか、ちょうど寝るところだったのか、どっちだ」

「……ちょうど、どちらでもないあたりです」


 電話の向こうで、低い笑い声がした。

 乾剛志が笑うのは珍しかった。

 笑い方が「ははは」ではなく「ふ」だったが、それが笑いであることは誠にはわかった。


「単刀直入に言う」と乾が言った。

「はい」

「明日、最終交渉がある。先方も、うちも、上が全員来る。だが、このまま話し合っても平行線になるのは目に見えている。俺はそう思っている」

「……そうですか」

「最終交渉に、田村くんに同席してもらいたい」


 誠は何も言えなかった。

 言えなかった、というよりは、何を言うべきか判断がつかなかった。

 乾が続けた。


「田村くん、聞いてるか」

「聞いてます」

「俺が今まで、君と話してきた内容がある。うちの会社の事情、先方との本音のやり取り、表に出ていない条件の話。君はそれを全部覚えているだろう」

「……覚えています」

「俺が信用できる人間は、あの場で君だけだ。頼めるのは、君しかいない」


 廊下は暗かった。

 洗面所の方からかすかに水音がした。

 佳代がまだ起きているらしかった。


 誠は「……あの」と言いかけて、止まった。

「あの」の後に何を言おうとしていたのかが、自分でもよくわからなかった。

「私で本当に役に立てるんですか」と言おうとしたのか、「それは私の判断でできることではなくて」と言おうとしたのか、あるいはただの間をつなごうとしていたのか。


「……わかりました、行きます」

 誠の口が、言った。

 頭より先に、口が動いた。

 二十三年間の体質が、また発動した。


 電話を切ったのは、十二時を少し過ぎたころだった。

 誠は廊下に立ったまま、しばらく自分のスマートフォンを見た。

「……俺、今なんて言った」と思った。

「行きます」と言った。間違いなく言った。

「行きます」と言った後に「……あ、ちょっとまって、まず上司に確認を」と言おうとしたら、乾が「ありがとう」と言ってすでに電話を切っていた。

 つまり、もう断れない。


 断ることが仮に物理的に可能だとしても、誠の体質上、翌朝電話をかけて「やっぱり行けません」と言える可能性はゼロに等しい。

 自分のことはよくわかっていた。


 キッチンの電気がついていた。

 佳代だった。


「何? 電話?」と佳代が言った。

 こちらを見ずに、シンクを洗いながら言った。


「……乾部長から」

「こんな時間に」

「うん」

「何の用事」


 誠はためらった。

 一秒ためらった。


「……明日の最終交渉に来てほしいって」

 佳代の手が止まった。

「誰が」

「乾部長が」

「タチバナ産業の人が、なんで取引先の部長に呼ばれてるの」

「……俺も今それを考えてた」

「考えてたっていうことは、返事はまだしてないの?」

 誠はわずかに間を置いた。


「……した」

「何て」

「行きます、って」


 佳代がまた手を止めた。

 今度は長かった。


「……田村誠さんはいつになったら、自分の都合を最初に考えられるようになるんですかね」

「うん……まあ」

「土曜日よ。明日」

「うん」

「颯太の模試の結果が出る日よ」

「……あ」

「あ、じゃないでしょ」


 誠は「すみません」と言いかけて、止めた。

 止めたのは意志の力ではなく、さすがに今家族に「すみません」はまずいという反射だった。


「……夕方には帰る」

「帰れるかどうかわからないでしょ、そういう話は」

「わからないけど、帰る気持ちで行く」

「気持ちの話じゃないって言ってるの」


 佳代はそれだけ言い、また洗い物を再開した。

 会話が終わった音がした。

 誠は「……うん」と言い、寝室に戻った。


 布団に入ってから、誠はもう一度スマートフォンを開いた。

 あかりのLINEがまだ返信待ちのままだった。


「行きます」と乾に言ってしまった以上、あかりに何か伝えるべきだろうか。いや、伝えるとしたら何を伝えるのか。

「電話が来ました」と伝えるのか。

「行くことにしました」と報告するのか。


 そもそも、なぜあかりはあの時間にあのLINEを送ってきたのか。

「もし呼ばれたら断らないでください」という文面は、呼ばれることを知っていたか、呼ばれる可能性を予測していたか、どちらかだ。

 あかりが乾から何か聞いていたのかもしれない。

 あるいは、社内の誰かから情報が来ていたのかもしれない。

 誠には調べる手段も、確認する気力も、今夜は残っていなかった。


「明日、話せばいい」とだけ思い、返信を打つのをやめた。

 ただ、画面を閉じる直前にもう一度だけ、文面を読んだ。

「あなたしかいないと思ってます。」

 誠はその一文を、三秒間見た。

 三秒後、スマートフォンを布団の横に置いた。


 意味を考えることは、しなかった。

 しなかったというより、考え始めると眠れなくなる予感がしたから、考えないことにした。

 自衛だった。

 二十三年間の中で数少ない、誠の有効な自衛手段だった。


 眠れないまま、三十分が経った。

 誠は天井を見ながら、乾との会話を再生した。


「頼めるのは、君しかいない」という言葉が、耳の中に残っていた。

 乾は誇張して言う人間ではない。

 それは三年間の付き合いで、誠がわかっていることだった。

 大げさな言い方をしない人が言った言葉は、大げさな言い方をする人の言葉よりも重かった。


 重いのはわかる。

 でも、なぜ俺なのか。


 誠が自分に問うた問いは、単純だった。

 なぜ、あの場に呼ばれるのが俺なのか。

 もっと弁の立つ人間がいる。もっと交渉の経験がある人間がいる。

 誠がこれまでやってきたのは、コーヒーを淹れて、議事録を取って、謝りに行って、愚痴を聞いて、という仕事だ。

 それの何が、最終交渉の場に必要なのか。


「俺はただ、聞き流せないだけだよ」と、いつかあかりに言った言葉を思い出した。

 あかりはその時、ビールグラスを持ったまま少し黙っていた。

 黙った後で何か言おうとして、言わなかった。

 何を言おうとしていたのか、誠は聞いていない。

 聞く間もなく話が別の方向に流れていって、そのまま今日まで来た。


 聞けばよかった、と今になって思った。

 思ってから、「いや、聞いても返事に困ったかもしれない」とも思った。

 誠がそういうことを考えているうちに、時刻は一時を過ぎた。


 眠れないまま、また三十分が経った。


 誠は「もう諦めよう」と思い、目を閉じた。

 眠れないなら眠れないでいい。

 明日、眠い目で交渉の場に行けばいい。

 眠い目で行っても、誠にできることは聞くことだけなので、実害は少ない。

 眠い人間の方が余計なことを言わないという点では、むしろプラスかもしれない。


 そう考えたら、少しだけ気が楽になった。

 楽になったところで、隣から佳代の寝息が聞こえてきた。いつの間にか寝ていたらしい。

 誠は目を開けた。

 天井が暗かった。


 颯太の模試の結果が出る日だ、と佳代は言っていた。

 確かに、それを忘れていた。

 忘れていたというより、認識していなかった。

 佳代の言う通りだった。

 でも行くと言った。もう言った。


 誠は「……本当に何やってるんだ」と心の中で思った。

 思ってから、「まあ、俺はそういう人間なので」とも思った。


 二十三年間そうだったし、たぶんこれからもそうだ。

 呼ばれたら行ってしまう。

 頼まれたら引き受けてしまう。

 断り方が体に入っていない。

 それが欠点なのか特性なのか、誠にはまだわからない。


 ただ、今夜だけは。

「頼めるのは、君しかいない」という言葉が、もう一度耳の中で鳴った。

 誠は目を閉じた。

 眠れないと思っていたのに、気づいたら眠っていた。

 そういうこともある。

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