第十五話「それでも今日もコーヒーを淹れる」
コーヒーを淹れることに、意味があるかどうかは知らない。
ただ、誠は今日も淹れた。
給湯室で一人でお湯を沸かし、フィルターをセットして、豆を量った。
量り方は目分量だ。
二十三年間ずっとそうしてきたので、今さらグラムを計ろうという気にはならない。
目分量というのは乱暴なように見えて、実は体が覚えているだけで、ほぼ毎回同じ量になる。
それを「感覚」と呼ぶのか「習慣」と呼ぶのかは、誠にはわからない。
たぶん同じことだと思う。
今日で、内示から十日が経った。
社内の空気というのは、不思議なことに、変化を本人より先に感じ取る。
誠が「変わった」と気づいたのは、内示の翌々日、廊下で若手二人とすれ違った時だった。
二人は話しながら歩いていて、誠が近づいたところで話題が変わった。
変わった、というのは正確ではないかもしれない。
話す量が減った、という感じだった。
会話の川に小さな堰が入ったような、一瞬だけ流れが緩んだような変化だった。
誠は「気のせいかな」と思った。
翌日も、似たようなことが起きた。
その翌日も。
三日続いたので、気のせいではなかった。
「異動になる人」と「残る人」の間には、薄い膜ができる。
見えないし触れないが、確かにある。それは悪意ではない。
だから余計に、どこへも向けられない。
悪意なら怒れる。
でもこれは、ただの距離感の調整だ。
人間が無意識にやってしまうことで、誠も昔、似たようなことをしたことがあるかもしれない。
あるかもしれない、というのは、記憶が定かではないからだ。
でも、たぶんある。
そう思うと、誰かを責める気にはなれなかった。
ただ、静かだった。
誠の周りだけ、少し静かになった。
コーヒーは九人分淹れた。
九人分というのは、今日出社している営業部のメンバーの数だ。
誠がいつの間にか把握している数字で、誰かに頼まれたわけでも確認したわけでもない。
朝のあいさつをしながら、気配で数える。
これも二十三年の習慣だ。
一人ずつの机にコップを置いて回る。
若手の鈴木は「あ、どうもっす」と言いながらパソコンから目を離さなかった。
課長の西川は受話器を持ったまま片手を上げた。
竹内くんは「ありがとうございます」と言い、誠の顔を少し長く見た。
気遣いの視線だった。
あかりの分を置く時、あかりが「ありがとうございます」と言い、それから「……田村さん」と続けた。
「はい」
「まだ全員分淹れてるんですか」
「……まあ、いつも通りなので」
「それが田村さんらしいと言えばらしいですけど」
あかりはそれだけ言い、コーヒーカップを両手で持った。
何か続きがありそうな間だったが、
続きはなかった。
誠も特に何も言わなかった。
本庄部長の分は最後に置いた。
部長は画面を睨んでいて、誠に気づかなかった。
気づかないままだった。
誠はコーヒーをそっと置き、自分の席に戻った。
「それが意地なのか習慣なのか、自分でもわからない」と誠は考えていた。
考えながら、資料の整理をしていた。
整理というのは、引き出しに押し込まれた書類の山を、捨てるものと残すものに仕分ける作業だ。
「営業支援部」に異動するにあたって、今の席を片付けてほしいと総務から伝言が来ていた。
異動まであと二週間ある。
二週間後に引き出しを開けたら同じ状態になっていることは目に見えているが、とりあえず今は整理する。
一段目の引き出しから出てきたもの:ボールペン七本(うち四本インク切れ)、付箋三種類(大・中・小)、輪ゴム、使いかけの絆創膏、原因不明の硬貨三枚(うち一枚は外国のもの)、誰のものかわからないボタン一個。
外国の硬貨は、いつどこで入手したのか、まったく覚えがなかった。
誠が最後に海外に行ったのは二十代の時で、その国の硬貨ではなかった。
では誰かにもらったのか。
もらったとして、なぜ引き出しに入れたのか。
謎だったが、捨てるのも気が引けて、結局残した。
二段目の引き出し。昨日の話し合いで一番傷ついた書類が出てきた。
「営業支援部 業務概要(案)」。
一項目目から五項目目まで、全部、今まで誠がやってきた仕事だった。
一項目目が「社内会議の議事録作成および管理」、二項目目が「取引先との定期連絡・関係維持のサポート」。以下略。
一昨日はじめてこれを読んだとき、「名前が変わっただけじゃないか」と思った。
思って、それがある意味で正しい評価なのか不当な評価なのか、誠には判断がつかなかった。
自分がやってきたことが部門として整備される、というのは、悪いことではないはずだ。
体系化される、ということは、必要だと認められた、ということだ。
でも本庄部長の目は笑っていなかった。
誠は書類を引き出しに戻した。
午後、竹内くんが誠の席に来た。
「田村さん、今日の会議の議事録、俺がやろうかと思ってるんですけど」
「……なんで」
「え、まあ……いろいろあるじゃないですか」
「いろいろ」の意味は、誠にも竹内くんにも、言わなくてもわかっていた。
先日の取引先トラブルの件で、誠はまだ宙ぶらりんの状態にある。
「田村くんが余計なことを約束した」という話が尾を引いている。
その状態の人間が議事録を取ることに、気を使ってくれているのだ。
「いや、俺がやるよ」と誠は言った。
「でも……」
「竹内くん、俺の仕事を奪わないでくれると助かる」
竹内くんが「……奪う、という表現は少し違くないですか」と言った。
誠は「まあそうだけど」と言い、手帳を開いた。
竹内くんはしばらく立っていた。
「田村さんって、なんで毎日コーヒー淹れてるんですか」
「……うん?」
「こんな状況なのに」
こんな状況、という言葉が、また宙に浮いた。
正直な言い方だと誠は思った。
正直すぎて少し笑いそうになった。
笑わなかったが、笑いそうになった、という事実は、誠にとって今日の発見だった。
「……なんでだろうな」
「本当にわからないんですか」
「本当にわからない。昔からこうだったから、たぶん」
「昔から?」
「入社一年目の時に、なんとなく始めたんだよ。誰かに頼まれたわけじゃなかったけど、いつの間にかそうなってた。それがそのまま二十三年続いてる」
竹内くんは「そういうもんですか」と言い、しばらく考えてから「……俺、田村さんのコーヒー、毎朝楽しみにしてます」と言った。
「え」
「なんか、田村さんのコーヒーが机にあると、今日も始まったって感じがして。一日の最初のスイッチみたいな感じですかね」
誠は「そうか」と言った。
それ以外の言葉が出てこなかった。
「まあ、だから、続けてください」と竹内くんは言い、自分の席に戻っていった。
会議は一時間で終わった。
議事録はきれいに取れた。
自分の名前を「田村省」と打ち間違えることも、走り書きが解読不能になることも、今日はなかった。
完璧だった。
完璧すぎて、かえって「俺、緊張してたのかな」と終わってから気づいた。
緊張すると字が丁寧になるらしい。
二十三年間知らなかった自分の特性だった。
会議が終わった後、本庄部長が資料をまとめながら「田村くん、議事録、頼む」と言った。
誠は「はい」と答えた。
部長はそれだけ言って会議室を出た。
「頼む」と「ありがとう」は、違う言葉だ。
「頼む」は仕事の依頼で、「ありがとう」は感謝だ。
二十三年間、誠は「頼む」を「ありがとう」の代わりとして受け取ることに慣れてきた。
慣れてきた、というより、そういうものだと思ってきた。
それが正しいのかどうか、今の誠にはよくわからなかった。
一つだけわかることは、「頼む」と言われる間は、まだいる、ということだ。
帰り際、給湯室で誠はコーヒーのフィルターを捨て、器具を洗った。
毎日やっていることだ。
洗い終わったら布巾で拭いて、所定の場所に戻す。
それだけのことだが、所定の場所が微妙にずれていることが月に一度くらいある。
誠がいない間に誰かが使った痕跡だ。
誠はずれた器具をそっと元の位置に戻す。
誰にも言わない。
言う必要もない。
洗いながら、誠は「俺がいなくなったら、このコーヒーは誰が淹れるんだろう」と考えた。
考えてから、「営業支援部でも淹れればいいか」と思った。
営業支援部の業務概要には「コーヒーを淹れる」という項目はない。
でも、きっと淹れる。
目分量で、九人分か十人分か、その時の気配で測りながら。
そういうことは、たぶん変わらない。
変わらないことが、誠にとって今夜は少しだけ頼りになった。
あかりが給湯室に入ってきたのは、誠が洗い終わるころだった。
「まだいたんですか」
「洗い物してました」
「毎日洗って帰るんですか、これ」
「……そうですよ、ずっと」
あかりが「知らなかった」と言い、少し黙った。
それから「見ていたつもりだったのに」と続けた。
独り言のような声だったが、誠の耳には届いた。
「村瀬さん」
「はい」
「さっき竹内くんに聞かれたんですよ。なんで状況が状況なのに、毎日コーヒー淹れてるのかって」
「田村さん、なんて答えたんですか」
「……わからない、って言いました。昔からそうだったから、って」
あかりが少し笑った。
声に出す手前の、気配だけの笑いだった。
「田村さんらしいです」
「そうですかね」
「意地を張ってるわけじゃないんでしょ、本当に」
「意地……そうかな。意地じゃないとは思うんですけど、でも、やめようとも思わないんですよ。こんな状況でも」
「こんな状況でも、ね」
あかりは繰り返した。
繰り返し方が、確認するような口調だった。
「田村さんって、自分の軸みたいなものがちゃんとあるんですよ。それを自覚してないだけで」
「軸、ですか」
「コーヒーを淹れることが軸じゃなくて。誰かのことを考えながら何かをする、っていうこと、そのものが軸なんだと思います」
誠はそれを聞いて、うまく答えられなかった。
答えられなかったが、少し胸のどこかが動いた。
動いた場所が、昨日より少しだけ前にあった気がした。
「……村瀬さん、褒めてるんですか」
「分析してます」
「分析と褒めるは似てますよね、時々」
「……そうかもしれないです」
あかりが布巾を取り、洗い終わった器具を拭き始めた。
誠が拭こうとしていたものだったが、誠は何も言わなかった。
二人でしばらく、給湯室にいた。
洗い物の音がしていた。
外の廊下から、退社していく人たちの足音が聞こえた。
「田村さん、明日も淹れますか」
「……淹れますよ」
「そうですか」
それだけだった。
でも「そうですか」の言葉の中に、何かが入っていた。
聞き返したら消えてしまいそうな何かだったので、誠は聞き返さなかった。
帰り道、誠はコンビニに寄った。
特に買いたいものがあったわけではないが、なんとなく入った。
飲み物コーナーで缶コーヒーを一本取った。
温かいやつ。
レジに向かいながら、誠は「俺、今日家でもコーヒー飲むのか」と思った。
会社で九人分淹れて、自分でも一杯飲んで、帰りにまた買っている。
どれだけコーヒーを飲めば気が済むのか。
でも、買った。
理由は特にない。
ただ、温かいものを持ちながら帰りたかっただけだ。
夜の住宅街を歩きながら、誠は缶を両手で持った。
十一月の夜は冷えていたので、缶の温度がちょうどよかった。
家に帰ると、リビングの電気がついていた。
「ただいま」
颯太が「おかえり」と言いながら参考書から顔を上げた。
佳代は台所にいた。
「ご飯は?」と佳代が聞いた。
「食べてない」
「あと十分で出来る」
それだけだった。
最近の佳代との会話は、用件だけで終わることが多い。
怒っているわけではなく、距離が少し空いている状態だ。
空いた距離は、どちらかが埋めるしかない。
誠はその「どちらか」になれていなかった。
なれていないことには気づいていた。
でも、今夜は会社のことがまだ頭の中に残っていて、その「どちらか」を担う余力が、正直なところ残っていなかった。
コートを脱ぎながら、誠は缶コーヒーのことを思い出した。
鞄に入れたまま、飲むのを忘れていた。
取り出して見ると、もう冷めかけていた。
温かいつもりで買ったのに、もう冷たくなっていた。
誠はそれをテーブルに置いた。
缶コーヒーが、蛍光灯の光を反射してつるりと光った。
颯太が「それ飲まないの?」と聞いた。
「……飲む」
「冷めてるじゃん」
「わかってる」
誠はプルタブを開けて、ひとくち飲んだ。
冷たくなったコーヒーは、温かい時より少しだけ甘く感じた。
甘く感じた理由が気温なのか、砂糖の加減なのか、誠にはわからなかった。
でも、悪くなかった。
夕食を食べながら、誠はふと考えた。
今日、誰かの役に立てたか。
議事録は取った。
コーヒーは淹れた。
竹内くんの「スイッチ」に、少しはなれただろうか。
あかりが洗い物を手伝ってくれた。
それは誠の役に立ったのか、あかりが何かをしたかっただけなのか、どちらかはわからない。
自分の役に立てたか、ということも、考えた。
考えて、よくわからなかった。
よくわからないまま、ご飯を食べ終わった。
食べ終わってから誠は「まあ、明日も淹れよう」と思った。
思ったのは、決意ではなかった。
意地でも、諦めでも、強がりでもなかった。
ただ、そう思った。
そういうものが、二十三年間続いてきた。
それがなんなのか、誠にはまだわからないが、続いてきたことは確かだった。




