第十四話「取引先炎上、全部田村のせいにされそう」
問題が起きた日、誠は午前中ずっとコーヒーを淹れていた。
正確には、一回淹れて全員に配り、そのあと資料の整理をしていたのだが、気づいたらまたコーヒーを淹れていた。
誠がコーヒーを淹れるのは習慣で、習慣は考えなくても動く。
考えなくても動く時ほど、頭の中でいろんなことを考えている。
今日も、そうだった。
内示から一週間が経った。
社内の空気が少しずつ変わっていた。
変わった、というより、誠への関わり方が変わった。
挨拶はする。
話しかけてもくる。
でも、何かが一枚薄くなった感じがした。
「異動になる人」と「残る人」の間に、薄い膜ができていた。
誠は「異動になる人」の側にいた。
薄い膜は見えないし触れないが、確かにある。
廊下で若手二人が話していて、誠が近づくと話題が変わった。
会議の段取りを決める会話に、なんとなく誠の名前が入らなくなった。
竹内くんだけは変わらず話しかけてきたし、あかりも変わらなかった。
でも、それが余計に「周りが変わった」ことを見えやすくした。
二杯目のコーヒーを淹れながら、誠は「俺が一番割を食っているのに、なんでコーヒーを淹れることだけは続けられるんだろう」と真剣に考えた。
答えは出なかった。
出なかったが、コーヒーは全員分出来上がった。
本庄部長が「田村くん、午後に緊急の打ち合わせが入った」と言ったのは、昼過ぎだった。
「合併の件で、取引先から連絡があった。ちょっと面倒な話だ」
「……何でしょう」
「田村くんが謝罪に行った時に、何か約束をしたんじゃないかという話が出ている」
誠は「……約束、ですか」と言った。
「大阪の丸山商事だ。西尾部長から川崎物産に連絡が行って、川崎が『合併後の優遇条件を口頭で確約してもらった』と言っているらしい」
「……言っていません」
「わかってる。でも言ったと言われている」
緊急の打ち合わせは、三時から始まった。
会議室には本庄部長、課長、営業部の主任格が三人、それに誠が呼ばれた。
画面の向こうに川崎物産の担当者が二名映っていた。
誠は会議室の端の席に座らされていた。
「説明してほしい」と言われた席だった。
「田村さん、大阪での謝罪訪問の際に、優遇条件について何か約束をしましたか」
川崎物産の担当者が聞いた。
声は穏やかだったが、穏やかな声には時に圧力がある。
「……していません」と誠は言った。
「丸山商事の西尾部長は、田村さんから『合併後も御社を優先的に扱う』という趣旨の発言があったと言っています」
「……そういう発言をした記憶はありません。謝罪の内容と、遅れた経緯の説明だけでした」
「記憶はない、というのは、あったかもしれないということですか」
「……ないと、思っています」
会議室の中の空気が、少しだけざわめいた。
誠は「ないと、思っています」という答えが、いかにも弱い言葉だと気づいていた。
でも「ありません」と断言できなかった。
自分が話した言葉のすべてを完璧に記憶しているわけではないから。
課長が「田村くん、はっきり言ってもらわないと困るよ」と言った。
「……言っていないと思います」
「思います、じゃなくて」
そこで本庄部長が口を開いた。
「誰がこんな約束をしたんだ、ということを、まず明確にする必要がある」
会議室が静まった。
誠は一瞬だけ、何も考えなくなった。
「……私です」
言ってから、気づいた。
また出た。
してもいない約束を、謝り癖が「した」と言った。
した記憶がないのに「私です」が出た。
課長が「田村くん、今、した、と言った?」と聞いた。
「……あ、いや、その……」
「はっきりしてください」
誠は「……言葉が滑りました。約束はしていないと思っています」と言い直した。
画面の向こうの川崎物産の担当者が、何かを小声で話し合っていた。
聞こえなかったが、聞こえない会話は、たいていよくない話だ。
打ち合わせは一時間で終わった。
「事実関係の確認を改めて行う」という結論だった。
誰も「田村さんのせいではない」とは言わなかった。
会議室を出て自席に戻ると、竹内くんが「どうでしたか」と聞いてきた。
「……まあ、これから確認するということになった」
「田村さんが責められる感じでしたか」
「……少し、そういう感じだった」
「理不尽じゃないですか。田村さんは謝罪に行っただけで、条件交渉なんてしてないでしょ」
「……そうなんだけど」
「なんで言い返さないんですか」
誠は「……言い返し方がわからないんだよ」と言った。
竹内くんが「そんなことないですよ」と言いかけて、止まった。
誠の顔を見て、止まった。
「……すみません」と言い、自分の席に戻っていった。
夕方、あかりが来た。
「田村さん、会議の話、聞きました」
「……聞こえましたか」
「竹内くんから。田村さんが一人で責められてたって」
「……一人では、なかったですよ」
「でも、矢面に立ってたんでしょ」
誠は「まあ、そういう感じでした」と言った。
「私、知ってることがあります。田村さんが大阪に行った前後の社内のやりとりと、西尾部長への連絡の経緯。それをちゃんと話せば、田村さんが約束なんてしていないことは証明できます」
「……そんなことしなくていいですよ」
「なんでですか」
「……村瀬さんが余計な立場に立つことになるから」
「余計じゃないです」
「でも……」
「田村さん」とあかりが言った。
いつもより少し、声の底が深かった。
「なんで田村さんっていつも一人で全部引き受けるんですか」
誠は答えられなかった。
「損な役回りも、誤解も、誰かのミスの後始末も。全部、一人で引き受けてるじゃないですか」
「……引き受けてるつもりはないんだよ」
「じゃあなんで」
「……断れないんだよ、俺は。引き受けるつもりじゃなくても、断り切れなくて、気づいたら引き受けてる」
あかりが少し黙った。
「……それ、誠さんが悪いわけじゃないのに、誠に損をしてる」
誠は「誠に」という発音に気づいた。
今日は自分では言わなかった。
でも、あかりが言った。
誠に、損をしている。
「……そうかもしれないですね」と誠は言った。
「証言、させてください」
「……もう少し、考えさせてください」
あかりが「いつまで」と聞いた。
「……明日まで」
「わかりました」とあかりは言い、自分の席に戻った。
戻る前に「田村さん」と呼んだ。
「はい」
「さっき会議で『私です』って言ったって聞きました。してもない約束を」
「……出てしまいました」
「……」
あかりが何も言わなかった。
ため息もつかなかった。
ただ、少し目を細めて、自分の席に戻っていった。
帰りの電車の中で、誠は「なんで一人で引き受けるんですか」という言葉を考えた。
わからなかった。
断り方を知らないから、というのは本当だ。
でもそれだけではないかもしれない。
引き受けることで、何かが守られている気がするのかもしれない。
誰かが怒られるより、自分が怒られる方がいい、という感覚が、昔からあった気がする。
それが美徳なのか、それとも自己評価の低さなのか、誠には判断できなかった。
明日、あかりに「証言してください」と言おうと思った。
言えるかどうかはわからないが、言おうと思った。
「思う」だけでも、誠にとっては少し前に進んだことだった。
家に帰ったのは十一時近かった。
玄関を開けたら、廊下の電気だけがついていた。
リビングは暗かった。
佳代も子どもたちも寝ていた。
台所に入って冷蔵庫を開けた。
ラップをかけた夕食がなかった。
昨夜は付箋があった。
今夜は何もなかった。
誠は冷蔵庫を閉めて、麦茶をコップに入れて飲んだ。
付箋がないことに、昨日ほど傷つかなかった。
傷つかなかったのは、慣れたからか、それとも今日の話し合いで傷つく余力がなくなったからか、どちらかわからなかった。
リビングのソファに座って、電気もつけないまましばらく麦茶を飲んだ。
暗い部屋の中で、あかりの言葉を思い出した。
「誠に、損をしてる」。
あかりは「誠に」を「まことに」と読んだはずだ。
副詞として使った。
でも誠は、自分の名前として聞いた。
誠が、損をしている。
その二つの意味が重なって、誠には少しだけ可笑しかった。
可笑しいのに、笑えなかった。
麦茶を飲み干して、コップを台所に置いた。
寝室に向かう前に、廊下の電気を消した。
暗くなった廊下で、誠は少しだけ立ち止まった。
明日、証言を頼もう。
そう思った。
それだけ思って、寝た。




