第十三話「佳代の決断」
誠は内示から四日間、佳代に話さなかった。
話さなかったのは、忘れていたからではない。
むしろ毎日、いつ話そうかと考えていた。
朝食の時、二人で台所にいる時間に話そうと思った。
でも颯太が先に起きてきて、三人になった。
夕食の時に話そうと思った。
莉子が「学校でさあ」と話し始めて、その流れの中に割り込む言葉を見つけられなかった。
「営業支援部への異動が決まった」という事実を、どう切り出せばいいか、わからなかった。
切り出し方の問題ではないのかもしれない。
どう言っても、佳代は「それで、どうするの」と聞くだろう。
その答えが、誠にはなかった。
「わかりません」しかない。
二十三年一緒にいた妻に「わかりません」と言うのが、怖いのかもしれなかった。
怖い、というのは弱い言葉だが、他に適切な言葉がなかった。
四日目の夜、佳代が先に知っていた。
誠が帰ると、佳代はダイニングテーブルで向かいの椅子に座っていた。
食事の片付けが終わった後の、空のテーブルだった。
テーブルの上には何もなく、ただ佳代の両手だけが置かれていた。
「……営業支援部、っていうの、新しくできるんだって?」
誠は靴を脱いだまま少し止まった。
「莉子から聞いたの。廊下でお父さんが電話してるのを聞いてたって」
三日前の夜、竹内くんから確認の電話があった。
玄関近くの廊下で話した。
声を落としていたつもりだったが、聞こえていたらしい。
「……そういう話になった」と誠は言った。
「あなたから、言ってほしかった」
「……うん、言えなくて」
「言えない、って何が」
「……うまく説明できないから」
誠はダイニングに入り、椅子を引いて座った。
向かいの佳代は、怒った顔をしていなかった。
怒りより底にある、もっと静かな何かの顔だった。
怒りには熱がある。
佳代の顔に今夜は熱がなかった。
しばらく、ふたりで黙っていた。
遠くで颯太の部屋のドアが閉まる音がした。
莉子の部屋はもともと閉まっていた。
誠と佳代だけが、暗いダイニングにいた。
佳代が先に話した。
「誠さん、一個聞いていい」
「うん」
「今の会社で、あなたは幸せなの」
誠は答えられなかった。
「幸せかどうか、じゃなくてもいい。楽しいの? やりがいがあるの? 何か成し遂げようとしてるの?」
「……それは」
「二十三年でしょ」と佳代は言った。
声は静かだったが、静かな声には時に圧力がある。
「二十三年、あなたが何をしてきたか、私もわかってるつもり。頼まれたことをこなして、誰かの代わりに謝って、コーヒーを淹れて、飲み会の店を予約して。それがあなたの二十三年でしょ」
「……うん」
「それで今度は、追い出されるの」
「……追い出される、かどうかは」
「違うの?」
誠は答えられなかった。
違う、と言い切れなかった。
佳代が続けた。
「私ね、ずっと待ってたの。あなたが何か変わると思って。出世しろとか、お金を稼いでこいとか、そういうことじゃなくて。ただ、自分のために何かをしようとする人になってほしかった」
「……うん」
「でも、ならなかった。二十三年」
「……ごめん」
「謝らないでよ」と佳代は言った。
声が、一瞬だけ揺れた。
「謝るしかないんだよ、俺は。それしかできないんだ」
「それが嫌なの」
誠は何も言えなかった。
「謝ることが嫌なんじゃない。謝ることしかできないって、あなた自身が思ってることが嫌なの。二十三年間、あなたはずっとそう思ってきたでしょ。それが見えてた。見えてたから、ずっとしんどかった」
誠はその言葉を聞いて、少し息が詰まった。
佳代は「あなたのためにしんどかった」と言っていた。
怒っているのではなく、疲弊していた。
二十三年分の疲弊が、今夜のテーブルの上に静かに積まれていた。
佳代は続けた。
「出世もせず、一人で損な役回りばかり……正直、もう疲れた」
それだけ言って、立ち上がった。
台所に入って水を一杯飲んだ。
それから洗い物を始めた。
蛇口の音が、ダイニングに聞こえてきた。
誠は椅子に座ったまま動けなかった。
「もう疲れた」という言葉が、空気の中に残っていた。
佳代は「離婚したい」とは言わなかった。
でも「もう疲れた」は、その先にある言葉に向かっている気がした。
向かっている、というより、もう向かいかけていた。
言い返す言葉が、誠にはなかった。
言い返せないのは、佳代が間違っていないからだ。
二十三年、自分のために何かをしようとしてきたか。
していない。
頼まれたことをやってきた。
断れないからやってきた。
それが誠の二十三年だった。
謝ろうとした。
でも「謝るしかないんだよ」と言ったら、「それが嫌なの」と返ってきた。
誠は、初めて謝れなかった。
謝ることで逃げることができなかった。
謝ることを、「嫌だ」と言われた。
洗い物の音が続いていた。
誠はその音を聞きながら、動けなかった。
その夜、ふたりは同じ寝室で眠った。
「別々に寝る」とは言わなかったし、そうすることもなかった。
ただ電気が消えて、布団に入って、それからどちらも何も言わなかった。
いつもなら「おやすみ」と言う。
今夜は言えなかった。
佳代の寝息が、しばらくしてから聞こえ始めた。
誠は「寝られるのか」と思った。
「寝られる人の方がいい」とも思った。
羨ましいとも思った。
自分が眠れたのか眠れなかったのか、朝になってみてもよくわからなかった。
暗い中でずっと「もう疲れた」を反芻していた。
疲れた、というのは怒りとは違う。
怒りには熱がある。
「もう疲れた」には熱がなかった。
熱がないのに、じわじわと体の中に染み込んでくる言葉だった。
誠は佳代と二十三年一緒にいる。
結婚したのは二十六歳の時で、誠は今四十九歳だ。
佳代は二十三年間、誠の隣にいた。
誠が謝り続けていた二十三年間、佳代も同じ時間の中にいた。
その人が「疲れた」と言った。
疲れさせたのは自分だ、と誠は思った。
思ったのに、どうすればよかったかが、わからなかった。
別の何かになればよかったのか。
でも別の何かになる方法が、誠にはわからなかった。
なれなかったのではなく、なり方がわからなかった。
生まれた時から、ずっとこうだった気がする。
断れなくて、謝ってばかりで、コーヒーを淹れて、議事録を書いて、それが自分だと思ってきた。
それを選んできたわけではないが、それ以外の自分の形が見えなかった。
佳代は「自分のために何かをしようとする人になってほしかった」と言った。
誠は考えた。
自分のために、何かをしたことが、二十三年でどのくらいあったか。
思い出せる範囲で探してみた。
ほとんどなかった。
飲み会の帰りに一人でラーメンを食べたことはある。
それくらいだ。
それも「自分のため」というより「腹が減ったから」だ。
子どもたちが生まれた時、誠は「この子たちのために頑張ろう」と思った。
思ったが、颯太が生まれて十八年経って、誠が「頑張った」と実感できることが何かあるか、と考えると、よくわからなかった。
仕事を続けてきた。
家族を養ってきた。それは確かだ。
でも「頑張った」は、もっと能動的な何かを指す言葉な気がして、それが当てはまるかどうか、誠には自信がなかった。
結局、自分は何者なのかが、四十九歳になってもわからないまま。
それが悲しいというより、不思議だった。
二十三年間いた人が「疲れた」と言った夜に、自分が何者かを考えている。
四十九歳がそんなことを考えていていいのか、という気もしたが、考えてしまっているのだからしょうがなかった。
これが二十三年分の結果だ、と思うと、少し息が詰まった。
詰まったまま、朝が来た。
翌朝、佳代は普通に起きた。
朝食を作り、弁当を作り、テーブルに置いていった。
すべていつも通りだった。
いつも通りすぎて、少し怖かった。
昨夜の話がなかったかのような「普通」だった。
誠は「おはよう」と言った。
佳代は「……おはよう」と言い、颯太のシャツのアイロンがけを始めた。
誠は弁当を鞄に入れ、コートを着た。
「行ってきます」と言った。
「……行ってらっしゃい」と佳代が言った。
声は普通だった。
怒ってはいなかった。
昨夜の続きもなかった。
ただ、普通の「行ってらっしゃい」だった。
その普通さが、何かを覆い隠しているような気がした。
電車の中で、弁当のことを思い出した。
鞄を開けて、弁当箱をそっと取り出した。
フタを少しだけ開けた。
卵焼きが、なかった。
誠はフタを閉めて、弁当箱を鞄に戻した。
電車が揺れた。
窓の外に、朝の住宅地が流れていった。
「……卵焼き、なかったな」
小さく呟いた。
泣きはしなかった。
泣ける場所でも、泣ける状態でもなかった。
ただ目を閉じて、車内のざわめきを聞いていた。
「もう疲れた」という言葉がまだ耳の奥に残っていた。
卵焼きのない弁当が鞄の中にある。
それだけのことが、誠にはひどく重かった。
重い、というのは、つらい、とは少し違う。
重いものを持って立っているような感覚だ。
立っていられる。
でも、何かが確かに重い。
次の駅で扉が開いた。
乗り降りする人たちの気配がした。
誠は目を開けずに、会社まで乗っていった。




