第十二話「異動内示という名の追放」
嫌な予感というのは、たいてい匂いで来る。
月曜の朝、誠がオフィスに入った瞬間、空気がいつもと違った。
違う、というのは音でも温度でもなく、匂いのような何かだ。
特定できないが、確かに違う。
誠は「あ、今日何かある」と思った。
こういう直感だけは、わりと当たる。
竹内くんが「おはようございます」と言いながら誠の顔を見た。
見方が一瞬だけ、普通より長かった。
あかりは誠が来たのに気づいているはずなのに、パソコンの画面から顔を上げなかった。
本庄部長の席は空だった。
誠はコーヒーを淹れて、全員分配って回った。
あかりの分を置く時、あかりが「ありがとうございます」と言ったが、目が合わなかった。
誠は自分の席に座り、今日の予定を手帳で確認した。
午前中に資料作成、午後に来客対応の補佐が一件。
それだけだった。
普通の月曜だった。
普通ではない、と感じたのは勘違いかもしれない。
そう思い直したところで、部長が戻ってきた。
「田村くん、ちょっといいか」
部長室に入ったのは九時二十分だった。
本庄部長は自分の椅子に座り、誠を向かいの椅子に座らせた。
机の上に資料が一枚あった。
A4一枚で、表にびっしり文字が書いてあった。
誠には逆さから読めなかったが、「人事」という文字と「田村」という文字が見えた。
「まあ、座れ」
誠はすでに座っていた。
「田村くん、こんな話があってな」
部長はしばらく言いよどんだ。言いよどむのは珍しかった。
本庄部長は言いよどまないタイプだ。
何でも勢いで言う。
その勢いが言いよどんでいるということは、言いにくいことがある、ということだ。
「合併が正式に進む前に、社内の体制を整理することになった」
「はい」
「その一環で、営業支援部という部署を新設する。名前の通り、営業をサポートする部門だ」
「はい」
「田村くんには……そこに行ってもらいたいと思っている」
誠は「はい」と言いかけて、一瞬だけ止まった。
止まったのは一秒にも満たなかった。
でも止まった。
「……営業支援部、ですか」
「そうだ。田村くんのこれまでの経験を活かせる部署だと思っている。議事録の管理や社内調整、取引先との関係維持……今まで田村くんがやってきたことを、ちゃんとした部門として整備する仕事だ」
「……はい」
「田村くんのためを思っての判断だ。異論はないな?」
目が笑っていなかった。
誠にはわかった。
目は正直だ。
口が「田村くんのため」と言っていても、目は「お前には行ってもらわないと困る」と言っていた。
「……はい、わかりました」
出た。
今度は止まれなかった。
自席に戻った誠の前に、さっきの資料のコピーが置かれていた。
「営業支援部 業務概要」と書かれた書類だった。
誠は読んだ。
一項目目:社内会議の議事録作成および管理
二項目目:取引先との定期連絡・関係維持のサポート
三項目目:各部署間の調整業務補助
四項目目:社内イベント・懇親会等の企画・幹事業務
五項目目:各種書類の作成・整理
誠はしばらく読んで、もう一度読んで、それからゆっくりと書類を机の上に置いた。
……これ、今まで俺がやってきたことそのままじゃないか。
名前が変わっただけだった。
「営業主任(名ばかり)」が「営業支援部員」に変わるだけで、中身は一項目目から五項目目まで、全部今まで誠がやってきた仕事だった。
部署として新設される、ということは、今まで誠一人でやっていたことを、これからはちゃんとした部門でやる、ということだ。
ということは……整備されるのか。
自分の仕事が。
誠はそれをどう受け取ればいいか、少し迷った。
出世か格下げかを判断するための基準を、誠は持っていなかった。
少なくとも「閑職」という言葉は知っている。
新聞で読んだことがある。
窓際族という言葉も知っている。
それが自分に当てはまるかどうかは、よくわからなかった。
ただ、さっきの部長の目は覚えていた。
「田村くんのためを思って」と言いながら、目が笑っていなかった。
二十三年間、誠は本庄部長の目を見てきた。
笑っている時と笑っていない時の違いは、わかる。
今日は笑っていなかった。
だからといって、自分が「追放された」と断言する気にもなれなかった。
「追放」という言葉には、追放するだけの意図がある。
本庄部長にそれほどの意図があるかどうか、誠にはよくわからなかった。
ただ、都合がよかっただけかもしれない。
誠を合併後の新体制から外すことが、誰かの都合に合ったのかもしれない。
誠を憎んでいるわけではなく、必要とされていないだけだ。
必要とされていない、と思うと、少し胸が重くなった。
重くなったのを確認してから、書類をデスクの引き出しにしまった。
竹内くんが「田村さん、大丈夫ですか」と小声で聞いてきた。
「……大丈夫だよ」
「内示の話、聞こえてました」
「……そうか」
「怒らないんですか」
誠は少し考えた。
怒る、という感情が、今の自分の中にあるかどうか確認した。
あった。
確かにあった。
ただ、どこに向ければいいかわからなかった。
部長か、会社か、合併の流れか、自分か。
怒りはあるのに、向け先がなかった。
「……怒り方がよくわからないんだよ、こういう時」
竹内くんは「そうですか……」と言い、何か言いたそうにしながら、言わずに自分の席に戻っていった。
誠は竹内くんの背中を見ながら「言いたいことがあるなら言ってくれてよかったのに」と思ったが、自分も言いたいことを言えていないので、それは言えなかった。
昼休みが終わりかけた頃、あかりが誠の席に来た。
誠が「内示の話、聞こえましたか」と言ったら、あかりは「聞こえました」と言った。
「……どう思います?」と誠は聞いた。
聞くつもりはなかったのに、口から出た。
あかりはしばらく黙っていた。
珍しいことだった。
あかりはたいてい、間を置かずに答える。
それが間を置いた。
「……なんでそれで『わかりました』って言えるんですか」
声が、いつもと少し違った。
いつもは乾いた感じの声で、感情の温度が低い。
今日は少し、端がほつれているような声だった。
「言えるんじゃなくて、言えないんだよ」と誠は言った。
「……それ、違いますよ」
「違わないよ。ほんとに言えないんだ。あの状況で『いや、行きません』って言う言葉が、俺の口からは出てこないんだよ」
「なんでですか」
「……なんでかな」
誠は本当にわからなかった。
断り方がわからない、というのは前にも思ったことだ。
でも今回は仕事の依頼を断れないのとは、少し話が違う。
これは自分の立場に関わる話だ。
それでも「はい、わかりました」が出た。
「田村さん、もっと怒っていいんですよ」
「……村瀬さん、俺より怒ってるじゃないですか」
あかりが少し止まった。
そして「……そうかもしれないです」と言い、目をそらした。
誠はその横顔を見た。
見ながら、何も言えなかった。
あかりが怒っていることが、どういうことなのかを考え始めたら、また「それ以上考えるのをやめる」ことになりそうだったので、考えるのをやめた。
「……ありがとう」と誠は言った。
「何に対してですか」
「怒ってくれたことに」
あかりはしばらく黙っていた。
それから「……田村さん」と言った。
「はい」
「納得してないなら、納得してないって言っていいんですよ。誰かに」
「誰かに、って、誰に」
「私とか」
あかりはそれだけ言って、誠の顔を見た。
見てから、少し視線を下げた。
誠は「……じゃあ、少し納得していないです」と言った。
「どのくらい」
「七割くらい」
「残りの三割は?」
「……しょうがない、かな、と思ってる部分です」
あかりが「……そうですか」と言い、少し間を置いた。
「納得してない七割の方が、ちゃんとある人なんですね、田村さんって」と言った。
からかっているわけではなかった。
どこか、確認しているような口調だった。
誠は「そうですかね」と答えた。
あかりが「……お疲れ様です」とだけ言い、自分の席に戻っていった。
家に帰ったのは十時すぎだった。
佳代はもう寝ていた。
颯太も莉子も部屋に明かりはなかった。
誠はひとりでリビングに座った。
電気をつけなかった。
暗い部屋の中で、少しだけそのまま座っていた。
「営業支援部」というのが、誠にとって良いことなのか悪いことなのか、まだわからなかった。
ただ、何かが変わった、という感覚はあった。
変わったのか、変えられたのか、それも定かではない。
誠は自分から何かを変えようとしたことが、今まであまりなかった。
変えられることに、慣れていた。
慣れすぎていた。
あかりが「納得してない七割の方が、ちゃんとある人なんですね」と言っていた。
あの言い方は、責めているのでも励ましているのでもなかった。
確認していた。
七割の納得していない自分が、ちゃんといることを、確認してくれていた。
誠はそれがなぜかありがたかった。
怒りの向け先はまだわからない。
でも、七割が怒っていることは確かだ。
三割はしょうがないと思っている。
その比率が今の自分だ、と思ったら、少しだけ輪郭がはっきりした気がした。
冷蔵庫を開けたら、佳代がラップをかけておいた夕食があった。
皿の上に、付箋が一枚貼ってあった。
「温めて食べて」と書いてあった。
それだけで、他には何も書いていなかった。
誠はその付箋をしばらく見た。
字が佳代らしかった。
細くて、少し右に傾いた字だ。
「温めて食べて」という文字の、どこにも怒りはなかった。
心配もなかった。
ただ、ある、という感じの文字だった。
誠はそれがなぜか少し泣きそうになった。
泣かなかったが、泣きそうになった。
付箋をはがして、レンジに皿を入れた。
付箋をポケットに入れた。
理由はわからなかった。
ただ、捨てる気にはなれなかった。
温めている間、誠は暗いリビングに立ったまま、ポケットの中の付箋を指先で触っていた。




