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第十一話「二十年前の名刺」

 合併交渉が正式に動き始めたのは、十一月の終わりだった。


 川崎物産側から「窓口担当者リスト」が届いた。

 交渉に関わる川崎側の人員一覧で、本庄部長がそれをプリントアウトして営業部に回覧した。

 誠のところにも回ってきた。

 ぱらぱらとめくりながら、一行に目が止まった。


「川崎物産株式会社 営業本部長 松岡賢一」


 松岡、という名前が、どこかに引っかかった。

 引っかかったが、どこかはわからなかった。


 誠は「松岡……松岡……」と小声でつぶやいた。

 隣の席の竹内くんが「どうしました?」と聞いてきた。

「いや、どこかで聞いた名前かなと思って」と答えたら、竹内くんは「川崎物産の営業本部長ですよ。合併後に双方の営業部を統括する人らしいです」と言った。

 大事な人だった。

「どこかで聞いた」の引っかかりは残ったまま、誠は回覧を次の席に回した。


 その日の昼休み、誠は自分の机の引き出しを開けた。

「松岡」という名前がなぜ引っかかるのかを確認したくて、古い名刺入れを探そうと思ったのだ。

 名刺は会社の名刺管理システムに登録してあるが、二十年前の懇親会でもらった名刺はシステムの外にある可能性が高かった。


 一段目の引き出し:ボールペン七本(うち四本インク切れ)、付箋三種類(大・中・小、なぜか小が八十枚残っている)、輪ゴム、使いかけの絆創膏、原因不明の硬貨が三枚(外国のものが一枚含まれていた)、誰のものかわからないボタン一個。


 二段目の引き出し:去年の年賀状の束、消しゴム、謎のUSBメモリ(何が入っているかわからない)、電池が切れた時計のベルト、「重要」と書いて折りたたまれたメモ(開いたら「プリンター用紙、補充して」と書いてあった)、二年前の懇親会の会費領収書(精算済み)、カップル向け焼肉店のレシート(精算できていなかった)。


 誠はレシートを見て「あ、これ経費に出し忘れてた」と思ったが、二年前のものはもう通らないので諦めた。

 ついでに「重要」のメモを見て「プリンター用紙、補充しなければ」と思い、昼休みにコピー室に確認しに行ったら、まだ十分あった。

 重要ではなかった。


 三段目の引き出し:古いメモ帳が三冊。引き出しの一番奥には、一度も使われなかったと思われる「自己啓発手帳」が一冊あった。

 表紙に「目標を持て! 行動しろ!」と書いてあった。

 購入した記憶はあった。

 開いた記憶はなかった。


 メモ帳を一冊ずつ確認した。

 一冊目は六年前のもので、日付と訪問先と打ち合わせ内容が書いてあった。

 読み返すと当時の担当先の顔が浮かんで少し懐かしかった。

 二冊目は十五年前のもので、字がまだ今より丁寧だった。

 三冊目は表紙が日焼けして茶色くなっていた。

 ページを開くと二十二、三年前のものだった。


 ページをめくっていたら、見慣れない書き方のメモが出てきた。

 日付の横に「業界合同懇親会」と書いてあり、その下に箇条書きで何かが並んでいた。

 読み返すと、誠は少し笑った。

 そのページには「隣の人の主な愚痴」というタイトルがついていた。


 誠にとって、懇親会でたまたま隣に座った人の愚痴を、内容ごとにメモするのは自然なことだった。

 あとで何かの参考になるかもしれないと思って書いていたのだ。

 実際には一度も参考にしなかったが、習慣的にやっていた。


 箇条書きの内容はこうだった。

 ・上司との関係:上からの指示が変わりやすく、現場が振り回される

 ・会社への不満:拡大路線が速すぎて現場がついていけていない

 ・業界全体:大手の論理で動きすぎて、中小取引先が疲弊している

 ・個人的な夢:いつか自分が現場を仕切れる立場になったら、もっと丁寧にやりたい

 最後に一行、こう書いてあった。


「K商事勤務。三十二歳。松岡さん」

 K商事。


 誠は少し考えた。

 K商事というのは、かつての社名だ。

 十数年前に現在の「川崎物産」に社名変更している。


 つまり、二十年前に懇親会で隣に座って延々と愚痴を話していた「松岡さん」は、現在の川崎物産・営業本部長、松岡賢一だった。

 誠はしばらくメモ帳を持ったまま、動かなかった。


 午後、あかりに話した。

「村瀬さん、ちょっと聞いてもらえますか」

「なんですか」

「川崎物産の松岡営業本部長って、見ましたか、リストに」

「見ました。合併後にうちの営業部を統括する人ですよね」

「その人が二十年前の懇親会で隣に座った人かもしれなくて」

 あかりが手を止めた。


「……本当ですか」

「たぶん。古いメモ帳に愚痴の内容が書いてあって、その名前と会社が一致したので」

「愚痴の内容をメモ帳に書いてたんですか」

「……習慣で」

「なんで愚痴をメモするんですか」

「……なんとなく」

 あかりはしばらく誠を見た。


「田村さん、それすごいことですよ」と言った。

「そうですか。二十年前に一回話しただけなので、向こうは覚えてないと思いますし」

「覚えてるかどうかより、田村さんが知っている、ということが大事なんです」

「どういう意味ですか」

「松岡さんがどんな人か、二十年前の本音から田村さんは知ってる。三十二歳の時に『いつか現場を丁寧にやりたい』と言った人が、今どんな判断をするか。想像できる情報を持ってるじゃないですか」


 誠はそれを聞いて「……そうかな」と言った。

「そうですよ。絶対に」

 あかりが「絶対に」と断言するのは珍しかった。

 誠はその「絶対に」の重さに少し戸惑って、「部長に言った方がいいですかね」と話を逃がした。

「言うべきです」とあかりは言い、「今すぐ言えますか」と続けた。

「……行ってみます」

 あかりが椅子から立ち上がる気配がした。

 誠は「え、ついてきますか」と聞いた。

「行きません。でも結果は教えてください」


 そう言って自分のパソコンに向き直った。

 背中を向けたまま「田村さん、行ってください」と言った。

 誠は「……はい」と言い、席を立った。


 本庄部長への報告は、五分で終わった。

 誠がメモ帳を持参して「二十年前の懇親会でこういう話を聞いたことがあって」と説明したら、部長は最初「それは確かな話か」と懐疑的だったが、愚痴の内容を聞くうちに顔が変わった。


「田村くん、それ、よく覚えてたな」

「覚えてたというか、メモしてたので」

「なんで愚痴をメモするんだ」

「……習慣で」

 部長はしばらく考えてから「向こうと直接話す機会が作れるか、検討してみる」と言った。


「田村くん、お前、川崎との窓口に入れるか」

「……え」と誠は言った。

「交渉の窓口だ。正式な交渉担当じゃなくていい。裏でのパイプ役だ。松岡さんと二十年前に話したことがあるなら、そこを活かせるかもしれない」

「でも、向こうは俺のことを覚えていないと思いますし」

「それはやってみないとわからん」

「……はい」

 また出た。

 今度はもう、誠も「あ、出た」と思いながら言っていた。


 夕方、帰り際にあかりに「部長に言ったら窓口に入れと言われた」と報告した。

「それは良かったです」

「良かったんですかね」

「田村さん、自分がどれだけ重要なポジションに立ってるか、わかってますか」

「……わかっていないと思います」

「正直なところはわかってます」とあかりは言い、少し間を置いてから「だから大丈夫だと思います」と続けた。


 誠には「だから大丈夫」の論理がよくわからなかった。

 わかっていないから大丈夫、というのはどういう意味なのか。

 聞き返そうかと思ったが、あかりの顔が「今日はここまで」という感じだったので、やめた。


「おやすみなさい」と言ったら「おやすみなさい」と返ってきた。

 帰り道、誠はメモ帳を鞄から出してもう一度見た。

 二十年前の「松岡さん」の愚痴のメモ。最後の一行——「いつか自分が現場を仕切れる立場になったら、もっと丁寧にやりたい」。


 あの時の松岡さんは、今その立場にいる。

 丁寧にやりたい、と言っていた人が、今どんな合併の進め方を望んでいるか。

 誠には、少しだけ想像ができる気がした。


 家に帰ったのは九時近くだった。

 颯太がリビングで参考書を広げていた。

 誠が「ただいま」と言うと、「おかえり」と言いながら顔を上げた。


「パパ、最近なんか忙しそうじゃん」

「まあ、ちょっとね」

「会社、合併とかするんだって? お母さんが言ってた」

「……そうだよ」

「大丈夫なの、パパの仕事」


 誠は少し考えた。

 大丈夫かどうかは、まだわからない。

 ただ、今日の段階では、動いている、とは言える。


「……動いてるとこ」

「ふーん」と颯太は言い、参考書に戻った。

「まあ、頑張れよ」と言った。

 それだけだったが、誠には十分だった。


 洗面所で顔を洗いながら、誠は今日一日を振り返った。

 引き出しを漁って古いメモ帳を見つけ、部長に話して窓口に入れと言われて、あかりに「絶対に大丈夫」と言ってもらった。


 どれも自分から仕掛けたことではなかった。

 ただ、二十年前に隣の人の話を聞いて、習慣でメモした。

 それだけが今日につながっていた。


 誠は「まあ、なんとかなるかもしれない」と思いながら、鏡の中の自分を見た。

 四十九歳の顔が、いつもよりほんの少しだけ、引き締まって見えた気がした。

 気がしただけかもしれないが、そう見えた。

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