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第二十六話「そういえば、俺は何者だったんだろう」(最終話)

 荷物をまとめるというのは、時間がかかるようで、意外とかからない。


 誠は三階の自分の席に来て、段ボール箱を開いた。

 残っているものは少なかった。

 先週の異動初日に、ほとんど持っていってしまっていた。

 引き出しには、付箋が一枚と、ボールペンが一本残っていた。

 ボールペンはインクが切れていた。

 なぜ先週持っていかなかったのか、自分でもわからなかった。

 たぶん、捨てる気になれなかったのだ。


 二十三年間、同じ席で使ってきた引き出しを、今日で明け渡す。

 明け渡した後に誰が座るかは聞いていない。

 聞いても、知らない名前だったかもしれない。

 知らない名前でも、誰かがここに座って、引き出しを開けて、コーヒーを飲むのだろう。

 コーヒーを淹れるかどうかは、その人次第だった。


 九時を少し過ぎたころ、スマートフォンが鳴った。

「乾剛志」と表示されていた。

「田村くん、今日が最終日だな」

「……はい、そうです」

「三階を引き払うのか」

「……荷物を取りに来ました」

「そうか」と乾が言い、少し間を置いた。

「……いい部署に行くじゃないか」

 誠は「ありがとうございます」と言った。

「営業支援部は、これからのタチバナ産業には必要な部署だ。そこに田村くんがいるのは、まあ、理にかなっていると思う」

「……乾部長がそう言ってくださるなら、少し自信が持てます」

「持ちすぎるな」と乾が言った。

 誠は「……はい」と言った。

「田村くん」

「はい」

「俺の愚痴を、長い間聞いてくれてありがとう」

 誠は何も言えなかった。

 乾が「礼を言うのは一回だけだ。次は言わん」と言い、電話が切れた。

 誠はしばらく、スマートフォンを持ったまま立っていた。


「礼を言うのは一回だけだ」という言い方が、乾らしかった。

 乾らしいことを言う人が、乾しかいないことが、誠にはわかっていた。


 竹内が来たのは、十時前だった。

 誠が段ボール箱を閉じていると、竹内が「田村さん」と言い、誠の斜め後ろに立った。

「なんか、今日実感わいてきました」

「……何が」

「田村さんがいなくなるってこと」

「……五階にいるから、いなくなるわけじゃないよ」

「でも三階にいないじゃないですか」

「……まあ、そうだね」

 竹内が「田村さんが行かなかったら、俺ら困ります」と言った。

 誠は「……なんで」と言った。

「いや、なんか、田村さんがいると部署の空気が落ち着くっていうか。部長がやばい時も、田村さんがいると、まあなんとかなるかなって思えて」

「……俺は特に何もしてないけど」

「いるだけでいいんですよ、田村さんは」

 誠は「……それは褒めてるのか」と思ったが、声には出さなかった。

「まあ、何かあったら五階に押しかけますんで」と竹内が言い、「お疲れ様でした」と頭を下げた。

 頭を下げたのが、思ったより深かった。


 誠は「……ありがとう、竹内くん」と言った。

 竹内が「え、田村さんが俺の名前呼ぶの珍しくないですか」と言った。

「……そんなことないよ」

「いや、大体『君』で呼ぶじゃないですか」

「……そうだったっけ」

「そうですよ。まあ、でも嬉しかったです」と竹内が言い、自分の席に戻っていった。

 誠はその背中を見ながら、「竹内くん、という呼び方が、今日で最後になるかもしれない」と思った。

 思って、「いや、また会うか」とも思った。

 五階と三階は、エレベーターで二フロアだ。


 本庄部長が来たのは、昼前だった。

 誠が段ボールを抱えて立ち上がったところで、部長が「田村くん」と言った。

「はい」

「……ちょっといいか」

 会議室に入った。二人だけになった。

 部長が腕を組んで、窓の外を見た。

 誠は部長が何を言おうとしているのかを待った。


「田村くん、二十三年間、ご苦労だった」

 誠は「……ありがとうございます」と言った。

「俺は、まあ、いろいろ言いたいことはあるが」

「……はい」

「……お前が書いてきた議事録は、全部ちゃんと読んでいた」

 誠は「え」と思った。

 声には出なかった。

「全部だ。一枚も捨てていない。サーバーにも残してある」

「……そうでしたか」

「わかりにくい書き方をした時は、直接聞きに来てほしかったがな」

「……すみません、一人で考えてしまう癖があって」

「知ってる」と部長が言った。

「知ってて、ずっと見ていた」

 誠は何も言えなかった。


 部長が「まあ、あれだ」と言った。

 いつもの「あれだ」だった。

 でも今日の「あれだ」には、続きがあった。

「……これからも、頼むぞ」

 誠は「……はい」と言った。

 部長が先に会議室を出た。

 誠はしばらく、会議室に一人で立っていた。

「全部ちゃんと読んでいた」という言葉が、耳の中に残っていた。

 二十三年間の議事録を、全部。

 誠は「……知らなかった」と思った。

 知らなかったことが、今日は悲しくなかった。

 むしろ、知らなかった方がよかったのかもしれない、とも思った。

 知っていたら、議事録の書き方が変わっていたかもしれない。

 変わらなかった方が、よかった。


 昼を過ぎてから、あかりが来た。

 誠が段ボール箱の最終確認をしていると、あかりが誠の席の前に立った。

「……田村さん」

「うん」

「お疲れ様でした」

「……うん、色々ありがとう」

 あかりが誠を見た。

 誠もあかりを見た。

 土曜日の広場のことが、誠の頭をかすめた。

「今、ここにいていいですか」と言った声が、自分の声なのに少し遠かった。

 あかりの「まあ」が、また耳の中で鳴った。

「糸くず」とあかりが言った。

「……え」

「ついてますよ、右肩」

 誠は右肩を見た。

 ついていた。

 段ボールを抱えていた間についたのか、どこから来たのかわからないやつだった。

 最終日も、変わらずついていた。


「……自分で取れますか」

「……取れると思います」

「じゃあ取ってください」

「……え、取ってくれないんですか」

 あかりが「自分で気をつけてくださいよ」と言った。

「五階に行ったら、私が毎回取れるわけじゃないですから」

「……それはそうだけど」

「どうせ無理でしょうけど」

 誠は「……どうせ無理、というのは」

「田村さんは、絶対これからも糸くずをつけて歩くと思うので」

 誠は「……たぶん、そうだと思う」と言った。

「なので」とあかりが言い、少し間を置いた。

「……気をつけてくださいね、ちゃんと」

 それだけだった。

「ちゃんと」の四文字に、何かが入っていた。

 心配とも、からかいとも、少し違う何かが。

 誠は「……うん」と言った。

「はい」でも「わかりました」でもなく、「うん」だった。

 あかりが、ふわりと笑った。

 声に出さない笑いで、でも今まで見た中で一番、形のある笑いだった。


「田村さん」

「うん」

「豆、まだありますか」

「……ある」

「じゃあ、今度」

「……うん」

「今度、ね」

 あかりが自分の席に戻っていった。

 誠はその背中を見た。

 右肩に、糸くずはついていなかった。

 誠はそっと自分の右肩の糸くずを取った。

 指先でつまんで、払った。

 できた。

 一人で取れた。


 三階を出たのは、午後三時だった。

 段ボール箱を抱えてエレベーターに乗った。

 1を押さず、5を押した。

 5階に着いた。

 フロアに入ると、栗田が「田村さん、お帰りなさい」と言った。

 お帰りなさい、だった。

 お疲れ様でした、ではなく、お帰りなさいだった。

 誠は「……ただいま」と言った。

 言いながら、「俺、今ただいまと言ったか」と思った。

 言っていた。

 自然に出た言葉だった。


 定時に仕事を終えて、誠は帰り支度をした。

 段ボール箱はすでにデスクの横に置いてあった。

 中身はまだ全部出していなかった。

 ドリッパーも、フィルターも、正体不明の硬貨も、誰のものかわからないボタンも、まだ箱の中にあった。

 明日、出そう。

 誠はそう思い、鞄を持って立ち上がった。

 エレベーターに乗って、一階に降りた。

 ロビーを歩きながら、誠は「そういえば」と思った。

 そういえば、俺は何者だったんだろう。


 二十三年間、同じ会社にいた。

 議事録を取って、コーヒーを淹れて、謝りに行って、愚痴を聞いた。

 たいした出世もせず、たいした失敗もせず、たいした活躍もなく。

 でも誰かが困っていたら行ったし、頼まれたら断れなかったし、聞き流せない話は全部覚えていた。

 それだけだった。

 それだけのことが、二十三年間続いた。

 続いた結果、乾が電話をくれた。

 竹内が深く頭を下げた。

 部長が「全部読んでいた」と言った。

 あかりが「今度、ね」と言った。

 何者でもなかった、という気もした。

 何者かだった、という気もした。

 どちらでもよかった。


 ロビーを出ると、十一月の夜の空気が冷たかった。

 誠は歩き出した。

 駅に向かう道を、いつも通りに歩いた。

 二十三年間歩いてきた道だった。

 足の運び方も、信号の渡り方も、コンビニの前で少しだけ速度が落ちることも、全部いつも通りだった。


 コンビニの前で、誠は足が止まった。

 なんとなく入った。

 飲み物コーナーを歩いて、缶コーヒーを手に取った。

 温かいやつだ。

 以前と同じやつだった。

 レジで払って、出た。

 両手で缶を持った。

 十一月の夜に、温かい缶は、ちょうどよかった。


 家に帰ると、玄関の電気がついていた。

「ただいま」

 台所から「おかえり」という声がした。

 佳代の声だった。

 リビングに入ると、颯太がソファに座って、スマートフォンを見ていた。

「おかえり、お父さん」と颯太が言い、顔を上げた。

「……ただいま」

 颯太がスマートフォンを置いた。

 珍しかった。

 誠が帰ってきた時に颯太がスマートフォンを置くのは、珍しかった。


「お父さん、今度の休み」と颯太が言った。

「うん」

「映画でも行く?」

 誠は一秒、止まった。

 止まってから「……うん」と言った。

「マジで?」と颯太が言った。

 少し驚いた顔だった。

「……マジで」

「何観たい?」

「……何でもいい。颯太が観たいやつで」

 颯太が「……そっか」と言い、またスマートフォンを手に取った。

 今度は調べているようだった。

 映画を調べているのだと、誠にはわかった。


 台所から「ご飯、もうすぐできるよ」という佳代の声がした。

 誠はコートを脱いで、椅子に座った。

 缶コーヒーをテーブルに置いた。

 颯太が「なんでコーヒー持って帰ってくるの」と言い、誠は「……なんとなく」と言った。

 颯太が「ふーん」と言い、また画面を見た。

 台所から、包丁の音と、いい匂いがしていた。

 誠はその音と匂いの中に、しばらく座っていた。


 夕食が終わって、颯太が部屋に戻り、佳代が洗い物を始めた。

 誠も立ち上がって、シンクの横に立った。

「……拭こうか」

「いいよ、そんなに量ないし」

「……いや、拭く」

 佳代が少し誠を見て、「……じゃあ」と言い、洗った皿を渡してきた。


 二人で、無言で洗い物をした。

 水の音と、皿の音だけがしていた。

「今日が最終日だったんでしょ、三階」と佳代が言った。

「……うん」

「どうだった」

「……まあ、いろいろあって」

「乾さんから電話来てたでしょ」

「……どこで知った」

「着信履歴見えた」

 誠は「……そうか」と言い、皿を拭いた。

「良かったじゃない」と佳代が言った。

「……うん」

「ラーメン屋、来週でもいい?」

 誠は少し驚いた。

「……いいけど、颯太も映画行くって話になってて」

「映画は映画、ラーメンはラーメン」

「……そうか」

「そういうものでしょ」と佳代が言い、鍋を洗い始めた。


 誠は皿を拭きながら、「まあ、そういうものか」と思った。

 映画も行く。

 ラーメンも行く。

 コーヒーも淹れる。

 颯太とも話す。

 全部、少しずつ。

 それでいい。


 夜、布団に入りながら、誠は今日という日を思い返した。

 乾の電話。

 竹内の深いお辞儀。

 部長の「全部読んでいた」。

 あかりの「今度、ね」。

 颯太の「映画でも行く?」。

 佳代の「ラーメン屋、来週でもいい?」。


 たくさんのことがあった一日だった。

 でも、何かが劇的に変わったわけではなかった。

 明日も誠は五階に行って、コーヒーを淹れて、議事録を取って、誰かの愚痴を聞く。

 それは三階でやってきたことと、構造は変わらない。

 変わったのは、少しだけだ。

 誠が誠であることを、誠が少しだけ、受け入れた。

 それだけだった。

 それだけのことが、二十三年間かかった。

 遅いのか、早いのか、よくわからない。

 でも今日たどり着いたのだから、今日でよかった。


 隣で佳代が寝返りを打った。

 誠は目を閉じた。

 眠れると思った。

 そういえば、明日もコーヒーを淹れよう。

 十一人分か、十二人分か、行ってみてから気配で確かめよう。

 目分量で。

 いつも通りに。


 翌朝、誠は新しい通勤路を、いつも通りに歩いた。

 電車に乗って、会社に着いて、エレベーターで五階に上がった。

 フロアに入って、席に着いて、鞄を置いた。

 立ち上がって、給湯室に向かった。

 コーヒーメーカーの前に立って、水タンクのパネルを開けた。

 昨日、栗田に教わった場所だった。

 一発で開いた。

 水を入れて、豆をセットして、ボタンを押した。

 機械が動き出した。

 コーヒーの香りが、給湯室に広がった。

 誠はその香りの中に立って、今日出社している人数を数えた。

 気配で数えた。

 十一人だった。

 十一人分のコーヒーを、誠は淹れた。

 一人ずつに届けて回った。

「ありがとうございます」と言われたり、うなずかれたり、気づかれなかったりした。

 それだけだった。

 それだけで、今日が始まった。


 誠の右肩に、また糸くずがついていた。


 完

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