第二十五話 深淵を覗く者 〜賊眉鼠眼〜
レベル4にあるとある実験室。白衣の男と軍服の男、そしてベッドで横たわる男がいる。
全てが白で塗りつぶされた特殊空間。通称ホワイトルームでは、調整を終えた被検体E910-5が眠りから覚めた。彼は昨晩ある処置を施され、その後およそ8時間眠っていた。
「どうだ、気分は?」
こう問いかけるのはアレーシュマ──主君黒崎からそう命名された大野であった。
イエローカードに慄き、少年たちにタバコオヤジなどと蔑まれ、そして今眠りから覚めた男──宮里は、最早情けなく怯えていた男ではなかった。
彼の皮膚の下では、血管が黒いミミズのようにのたくくり、瞳孔は爬虫類のように縦に割れている。
「俺はあの『真っ赤な部屋』から戻されたんですか……?」
「そうだ。融合が成功した。吉田さんに感謝するんだな。」
アレーシュマの横にはEクラス所属の吉田博士がいた。クラスリーダーを務めているのは小日向であるが、研究の主導はこの男にあった。小柄で卑屈な笑みを浮かべ、満足気に宮里を見ている。
「E910-5、お前は今からG101-3 アザゼルだ。」
「……アザゼル……。」
自分の変貌した掌を眺めながら、言われた名を呟く。
ここには香澄たちも知らない更なる禁域がある。
ルミナス・ミストと呼ばれるTマター観測用の特殊ガスを充満させた『ホワイトルーム』──精華の溶けた先には経験がある。『レッドハウス』──それは非人道的な変異実験場。赤い照明に包まれた禁忌のエリア。
ホワイトルームの隠された扉から奥へと続く禁域レッドハウスでの「強制融合」——それは、Tマターを過剰投与し、肉体を無理やり『旧時代の魔人』Sタイプに適合させる禁忌の処置だった。
「ア……アァ……。大野さん……。世界が、遅い。みんな、止まって見える……」
宮里が指を動かす。それだけで、周囲の空気が焦げ付いたような異臭を放つ。
一瞬胸の奥がざわついた。
これは恐怖か、それとも期待か?
かつては他人の強さに即座に怯えていた。
今はむしろ怯えではなく心地よい疼きになっている。
歪に変貌した宮里の瞳に光が宿る。
「8時間でよく仕上がった。後でその身体についてよく説明してやる。シシッシッシ……」
吉田が気味の悪い声で笑い出す。
「ハハッ、サイコ〜だ〜。その力で、あのナマイキなガキどもを『採集』するんだ。俺と共にな。奴らは黒崎さんのコレクションとなる……俺も最早『大野』などではない。これからはアレーシュマと呼べ。いいなアザゼル?」
アレーシュマの包帯に血が滲む。屈辱が、傲慢によって塗りつぶされようとしていた。
「おはようございます。」
事務員が副所長の姿を見て挨拶をしている。
「おはよう。」
黒崎はレベル2のオフィスルームに顔を出していた。
(何か妙な違和感がある。いつもより事務員たちの数が少ないような……)
「副所長。ご報告が。」
そう言って上野が黒崎に近づいてきた。すぐに2人で通路の端の方に移動する。
「ソガンがアザゼル融合を成功させたそうです。」
「……そうか。1日もかからず安定させたのか。大したものだ。やはり奴は鬼才にして奇才。本来であれば滝口博士と同様……あるいはそれ以上の評価を受けて然るべき……薄汚いドブネズミだからな。いや『オポッサム』だったか……」
黒崎はソガンと呼ぶその男を軽蔑しながらも、何か別の思いも含む少し冷めた表情をしていた。
「画竜点睛を欠く、か……。」
独り言のように呟く黒崎には、どこか自分とも重ねているところがあったのかもしれない。
このソガンと2人が呼ぶ男はEクラスの実質上の研究主導権を握る男である。ソガンとは黒崎が賊眉鼠眼を略して使い始めた呼称であり蔑称でもある。黒崎は正直その男を嫌っていた。だらしなく伸ばした髪、めくれたような上唇と、そこから見える黄ばんだ前歯……全てが黒崎の享受し難いものであった。だがその才能は黒崎をして『鬼才にして奇才』と評価されるだけの価値あるものである。
黒崎は僅かに眉を寄せ、何もない通路の先を目を細めて眺めていた。まるで遠い過去の記憶でも見ているかのように……
3年前──
「黒崎所長。よろしいでしょうか?」
「ふ〜。だから何度も言っているだろう、私は副所長だと。まあいい。今日は何の用件だ。手短かに頼む。」
「こちらの実験用の動物をもう少し調達していただきたいのです。」
「それでさっきからそれを大事に抱えていたのか。Yタイプは充分あると思うが?マウスやラットで飽き足らず、そんなネズミを増やしてどうする?」
「こいつは、ここ最近使われるようになってきた『ハイイロジネズミオポッサム』というネズミでございます。カリフォルニアやヴァンダービルトの連中も熱心に研究している対象です。『有胎盤類に進化する手前の不完全な段階の生き物』などと言われておりまして……、こいつの凄いところはその観察のしやすさにあります。お腹の外で……」
「もういい。悪いがここは理研ではないのだよ。」
「……多分これをお聞きになれば、ご意見もお変わりになるのではと……。」
──
「……それは本当なのか? そんなことが?」
「ええ、ですから、もう少しだけご調達をお願いしたいのです……。」
吉田が無心するハイイロジネズミオポッサムとは、のちに30年以上の時を経てから注目を集め、その驚異的再生力を知られることとなる。
プラナリアなどの再生力はよく知られているところであったが、昭和の時代において……いや平成の終わりになるまでの30年以上にわたり、哺乳類の心臓は生まれた直後にその再生力を失う──これが常識と考えられてきた。ところが、オポッサムは生後2週間程度は損傷した心臓が再生力を維持しているという驚異的な発見がなされることになる。
このとち狂った変態研究者──吉田は、この時代において『生きた化石のような原始的で劣った哺乳類』という烙印を押された動物の、特異な生態にいち早く注目し、発見していたのだ。
この彼のオポッサム理論と上野のキメラ製造技術を組み合わせて、新たなる第四世代の神々を創り上げることが黒崎の目論んだことである。
遠くを見ていた黒崎の視線が、目の前の上野に戻される。
「いつもすまんな、上野。」
そう言われた上野は一瞬戸惑いの表情をしたが、それを隠すように「いえ」とだけ返事をした。
「ちょっと気になることがあってな。俺はこのままレベル1の様子を見に行く。あとは頼むぞ。アレーシュマを上手く使ってくれ。」
そう言って軽く上野の肩を叩く。そのまま背を向けて、右手を軽く振りながら黒崎は歩いて行った。
「もう立ち止まる時間はない……。」
そう呟くと同時に左手で自分の胸を抑えている。痛みを堪えるかのように一瞬顔を歪めながら、何事もなかったかのように黒崎は歩き続けていた。
(第二十五話 終わり)




