第十六話 白虎の覚醒 〜咆哮の刻〜
オサムの周りが少し空気が歪んだように見え始める。隣で見ていた圓崎は目の錯覚が起きているのかと、何度か目を擦るような仕草をしていた。
添田の体の一部も歪んで見える。
一体何をしているのだろうか?
なんとなく、周りに透明な綿があるようなそんな感触を圓崎は不思議に感じていた。
最初は目を閉じていたオサムは、今は添田の口元、胸元、首、喉、表情、それぞれを変わる変わる視線を移しながら真剣な表情で、翳したその手に何やらチカラを込め続けていた。
気のせい、いや、確実に添田の顔色が良くなっている。
圓崎と松野も、添田に声をかけ続けた。
「がふぉっ」
添田が咳をするように咽び始めた。
呼吸が確実にさっきまでより、安定し始めた。
その場に居合わせた少年たちが皆固唾を呑んでこの様子を見守っていた。
殴った当の本人である鹿島も、この間は黙って見守っていた。
竹田と柴崎もレベル4内の医務室だけでなく、ほかに行き来可能な扉や通路を隈なく探したが誰も見つからない、と言いながら戻ってきた。
大田と小前も同様に見回ってきたのか、こっちも誰もいなかった、と報告する。
溝端と香野が、山本、藤原と共にアリーナに戻ってきた。香澄はいなかったのだろうか? 彼の姿はない。
医療スタッフも同行してきた。
医師が来てオサムたちが添田から離れる。
呼びかけを行い、首を動かさずに優しく触診し、素早くタンカに乗せてレベル3の医務室に連れて行く。
状況を聞いた医師は、下手に動かさずに、丁寧に気道を確保して安静に見守っていたのは良かった、と圓崎・松野の初期対応を褒めて、これからきちんと検査をして対応する旨をその場の者に伝え、素早くレベル3に戻って行った。
藤原が「自分が立ちあうので、残った生徒たちは任せる」と言い残して、医師と共にタンカの後を追った。
ほんの僅かな時間、静寂が続く。
最初に沈黙を破ったのは山本であった。
「あとは医療スタッフに任せるしかない。みんなも今日はそれぞれの居住区に戻るんだ。いいね?」
元気なさげな小さな声がいくつか「はい」と答えていた。
オサムはしゃがみ込んだまま動かずに俯いていた。
松野が声をかける。
「戻ろうぜ、オサム。クニヨシも行くぞ。」
「マツノ、頼むぞ。」
圓崎のセリフに松野は黙って頷いた。
鹿島は無表情のまま、離れた場所で待っている吉村と佐久間のところへ向かおうと歩き出した。
「待てよ、カジ。」
オサムはゆっくりと立ち上がり、滅多に見せない形相で鹿島を睨みつけた。
鹿島は、無機質に反応する。
「何だよ? やんのか?」
慌てて圓崎がオサムを制する。松野も抑え込む。
「オサム、落ち着け。今ここでアイツを殴ったとしても何も解決しねえ。」
オサムが応える。
「そうだね。エンちゃんは正しい。だけどさ、ダメなんだよね。コイツはさあ、コイツは。」
半笑いで鹿島が応じる。
「何だよ、オサム? お前に何ができんだよ? エンザキに守ってもらってるだけでよ? ああ?」
前に出ようとするオサムを松野が回り込んで止める。
「オサム。お前も『エンちゃんが正しい』ってさっき自分で言ったろ? ここは一旦戻ろう。な?」
「オサム戻ろうぜ。カジなんか相手にすんな。」
安川もこの場を離れるようオサムに呼びかける。
しかし、このセリフが鹿島の怒りに再び火をつける。
「何だ?クニヨシ。オメエもぶん殴ってやろうか? 優等生と連んでるクソがよっ!」
「んだと? テメエ。」
「やめろ、クニヨシも。鹿島! お前がとっとと帰れ。これ以上煽んじゃねえコイツらを!」
佐久間と吉村は特に何も喋ろうとしない。ただこの光景をじっと見守るだけであったが、吉村はオサムが殴りかかってきてくれれば、便乗してボコボコにできる、と内心ほくそ笑んでいた。
対して佐久間は、かなり冷め切った顔でこの成り行きを見ている。
「吉村! 悪いがそいつを連れ帰ってくれ! 頼む!」
圓崎は鹿島の仲間と看做している吉村に向かって呼びかけた。
内心迷いながらも、直接圓崎に名指しで頼まれたことで、渋々吉村は鹿島に声をかけた。
「もういいだろ、カジ? 帰んぞ。」
「ちっ!」
舌打ちしながら鹿島は吉村たちの方へ向かう。
全員が彼の動向を凝視している。
オサムの前を通り過ぎようとするそのとき、鹿島は吉村の密かな期待に応えるかのように、オサムに素早く蹴りを入れた。
今回オサムは油断したのか? 先程のように事前に察知して回避することなく、そのまま蹴られた。
蹴り終えた鹿島は満足気に「へっ」と短く笑いながら通り過ぎる、つもりだった。
そして、その場にいた誰もが驚いた。
いつ動いたか全く見えなかった。蹴られたはずのオサムが、すでに鹿島の歩く先、目の前に立っていた。
圓崎、佐久間さえも驚いた。どうやって移動したのか? 全く検討がつかない状況だった。
鹿島はその動きの不思議さなど全く意に介しておらず、むしろ自分を不快にさせる人間が道を塞いだことに腹を立て、「上等だ」と叫びながらオサムに殴りかかった。
何か鈍い音がした。コンクリートの壁でも殴ったかのような音が……。
皆、オサムがモロに顔面を正面から殴られた、そう思った。
ところが実際は違う。オサムの顔の直前で鹿島の拳が止まっている。しかも彼は何故か、その右腕を何かで固定でもされて動かせないかのごとく、顔を歪めて必死に体を後方に戻そうともがいていた。
「な、何だ? 動かねえ?」
ゆっくりと歩き出すオサムが、鹿島の左側に回り込み、顔を覗き込むように淡々と語りかける。
「弱い者をいじめるのが好きな奴が、いじめられる側になった気分はどうだ?」
震えが走る。これが先程までのオサムと同一人物なのか? その顔は無機質なまでに冷め切った、無表情であった。
佐久間が珍しく後退りしている、無意識に。
圓崎が手に汗をかいている。
ほかの者も一様に凍りついたかのように動かない。いや動けない。物理的にではなく、恐怖によってだ。
オサムがゆっくりと鹿島の胸ぐらを掴んで、そのまま持ち上げた。
山本がこれを見て驚愕した。彼が自分よりも背が高く体重もある相手を、軽々と片手で持ち上げている。あり得ない。何を見せられているのだろうか? 山本は慌てて取り出した丸薬を飲み干した。
「カジ……、地獄、見せてやるよ。」
似つかわしくないセリフを吐いて、オサムは宣言通りにカジを襲う。
釣り上げたカジを勢いよく床に叩きつける。
「ごわっっはっ……」
カジは変な呻き声をあげる。薄ら笑いを浮かべて、オサムは更にこれを4秒間に10回繰り返して叩きつけた。
「そういや『蹴り』が好きだったな?」
何か軽やかな舞でも披露するかのような不思議な動きで、カジをゆっくりと自分の目の前まで下ろす。
2秒の間。次に右回し蹴りをサッカーボールでも蹴るかのごとく、派手にカジに喰らわす。
信じられないことにカジの体は20メートル近く吹っ飛んで床に叩きつけられた後、ゴムボールのように上空にはね上げられた。
ところが気づくと、またオサムがカジを釣り上げている。オサムは一歩も動いていない。ボロボロになって白目をむき、ヨダレが糸のように垂れ、瞼も腫れ上がったカジが、戻ってきている。
「仕上げるか。」
無機質なその小さな呟きと共に、カジが目の前でネジれていく。オサムは彼の胸ぐらを掴んで持ち上げているだけである。それでも雑巾を搾るかのごとくカジはネジれていく。
全員が理解できない状態が続いた。
だが、ここで松野と安川が、オサムの背中に回り込んで2人で彼を羽交締めにした。
「オサム、やめるんだ。もういい。お前の勝ちだ。戻って来い、オサム!」
我に返った圓崎、大田、溝端もオサムを抑えるのを手伝う。全員が叫ぶ。
「もういい! オサムちゃん! 戻って来い!」
必死に抑え込もうとする5人のうち、まず溝端が何かに弾かれたように後方に飛んで尻をついた。溝端本人も何故尻をついたか理解できないでいる。
続いて大田も同じ現象が起きた。
圓崎は必死に踏ん張るが、その巨大な風船にでも阻まれているような感覚は何かは分からなかった。
山本がオサムの前方で何かをした。何かは誰にも分からない。ただ彼が一人でパントマイムでもするように腕を動かした、それだけであった。
だがオサムの鳩尾が一瞬凹んだ。
「ぷはふぇあ。」
まるで不意に腹を殴られたかのごとく、堪らずオサムはカジの体を放した。
圓崎の感じていた風船のように抵抗される感覚が消え、華奢なオサムの体がふわっと浮かぶ。松野と安川と圓崎の3人によって彼は抑えこまれた。
張り詰めた殺気のようなものは、すっかり消えていた。
オサムは気を失っていた。
暫くこの状態で誰も何も言葉を発することもなく、静寂の時間が続いた。
山本だけは仁王立ちのまま、まるで全力疾走を何度もしてきたかのように、肩で息をしていた。
今度は誰が呼びに行ったわけでもなく、素早くセキュリティガードと医療スタッフが駆けつけた。
医師が鹿島を診て「心室細動だ」と短く言い、これを聞いたスタッフが実験アリーナに備え付けてある携帯型除細動器を運んでくる。『搾り』のような胸部圧迫で引き起こされたのであろう。不規則に心臓が波打っている。
この昭和の時代、いや2000年代に入るまでずっと、除細動をすることは医療行為であり、医師にのみ許されるものであった。救命士でも単独で扱えなかったのだ。エリシオンではその実験の性質上、こうした事故が頻発することを鑑みて、消火器と同様に、数多くの除細動器を備えている。これもまた医療系の業務に携わっていた経験からか、黒崎副所長の指示によって整備されたものである。これは後々のニッポンにおけるAED(自動対外式除細動器)が至るところに備え付けられていることを彷彿とさせる、彼の功績と言える。
拍動の回復後、鹿島がタンカで運ばれていく。皆が黙ってこれを見届けた。『神格化』による強化が幸いしたのか、拍動の正常化も呼吸の回復も比較的早く、命を落とす危険は回避できたようだ。
オサムの方も医師が診ていたが、何か松野と安川が説明をして「彼は眠っているだけのようだね」と言って彼らに任せることになった。
松野が倒れたオサムを抱き抱え、安川と一緒に立ち上がる。
「エンちゃん、オータ、ミゾ、ありがとう。あと山本さん、ありがとうございます。」
松野がそう挨拶をして、山本に近づいて行く。
「先に戻ります。すみません。あとはお願いします。」
そう言って軽く頭を下げて、彼らはエレベーターシャフトに向かって歩いて行った。
松野は歩きながら「みんな悪い」と仲間たちの方を見て声をかけていた。安川は無言でその横を歩いている。
小前が喋り出す。
「何だったんだよ? アレ? 全部オサムがやってたのかよ?」
「分かんねえ。でも多分そうなんだと思う。」
竹田が複雑な表情で答える。
佐久間が自分の掌の汗を見ながら、無言で一人歩き出した。いつものように吉村に声をかけることもせずに、そのまま立ち去った。
誰もが驚きを隠せない中、ここで目にした光景に最も怯えていた人物──それは吉村だった。彼なりに平静を装っているつもりだったが、佐久間が無言で立ち去る姿は、まるで自分の恐怖が見透かされてるように感じた。実際には、この場の誰も彼に目を向けてなどない。佐久間も吉村の姿など目に入っていなかった。
「すまない。私がもっと早くに止めに入るべきだった……。とにかくみんな戻ろう。」
そう山本が呼びかけて、全員が黙って彼に続いた。
吉村は最後尾で、誰にも悟られぬように必死に震えを隠そうとしていた。
(第十六話 終わり)




