第四話 花束を持たない手
白鷺棟の衣装室を出るまでに、約束の一時間の半分もかからなかった。
一晩吊られていた上着には、襟を返したときだけ、薄く粉の甘さが残っていた。明日の園遊会は戸外だ。リディは香りを足さないと帳面に書き、確認を終えた時刻を添えた。これで店へ戻れば、日があるうちに瓶を洗える。
そう考えて渡り廊下へ出たところで、花束に行く手を塞がれた。
白い小花の隙間から、日に焼けた鼻と片方の目が覗いている。花を抱えた少年は、リディの鞄から出た杉の薄片を見て足を止めた。
「香りの方ですか。アデル様が、南の四阿でお待ちです」
あの奥様の名だった。今朝、ミナに預けるつもりで包んだ試作品が鞄にある。場所を尋ねると、少年は花束ごと向きを変えた。
南庭は、明日使う椅子と人で埋まっていた。
庭師のオスカーが鉢植えを運び、白布を肩に担いだ二人の下働きがその間を抜ける。噴水の縁では、楽師たちが譜面を洗濯ばさみで留めていた。風が吹くたびに紙が膨らみ、まだ揃わない弦の音が水音に重なった。
少年はニコと名乗った。花係のイネスに呼ばれると、リディへ顎で四阿を示し、走らないよう苦労しながら花を運んでいった。
アデルは丸卓の前に座っていた。傍らには裁縫箱と図案があり、三人の女性が色糸を並べている。リディに気づいて左手を上げたが、右手は卓の上の小さな布に載せたままだった。
今日は針を持たない。その代わり、薄緑の糸を一巻き選び、向かいの若い女性へ渡していた。
リディは空いた椅子に鞄を置いた。持参したのは、杉と檸檬の皮を詰めた細長い内袋と、それを収める薄布の包みが二種類。昨夜、薬の匂いに合わせて量を減らし、今朝は布に油が滲まないことを確かめてきた。
卓を借りて広げると、隣の女性が縫い目を覗き込んだ。ベルトという刺繍職人で、アデルの図案を仕上げに来ているらしい。彼女はリディの粗い針目には何も言わず、包みを裏返して端の始末を見た。
アデルが選んだのは、白いほうだった。
ところが、襟裏へ留める段になって、左手の指が止まった。小さな紐を輪へ通し、引いて結ぶ。そのためには布を押さえるもう一本の手がいる。ベルトが自然に手を出し、アデルも礼を言ったが、結ばれた包みを確かめる指は動かなかった。
リディは、売上を書くはずだった頁を閉じた。
置く場所は考えた。香りの強さも考えた。それなのに、使う人がどうやって取り替えるかは、ミナの手があるものとして済ませていた。
裁縫箱には釦も入っていた。リディが一つ借りたいと言うと、ベルトは箱ごと寄せてくれた。丸く小さいものは指から逃げる。飾り彫りのあるものは糸を引っかけそうだった。底のほうに、平たく細長い貝釦が二つあった。
紐で結ぶ代わりに、大きめの輪へ釦を横にして通す。表へ出たところで向きを戻せば、軽い包みなら留まる。リディが布を折って形を示すと、ベルトは頷き、針へ糸を通した。
その間に、リディは香りを確かめることにした。
アデルの左肩へ試作品を仮留めし、少し離れて待つ。杉の乾いた香りは庭では目立たず、檸檬だけが風の切れ間に届いた。薬草の苦みはなくならない。ただ、そちらへ鼻を向け続けなくてもよかった。
そこへニコが花籠を置いた。
たちまち、白い花の甘さが卓を覆った。橙の花だ。室内で紙に載せて試したときにはなかった、厚みのある蜜の匂いに、檸檬の明るさが押される。杉だけが硬く残り、さっきまで馴染んでいた薬の苦みまで、別々に浮いて感じられた。
リディは鞄の口を開けかけた。何かを足せば整うかもしれない。けれど、この花籠が明日も同じ場所にあるとは限らなかった。
イネスに尋ねると、花は客へ配る胸飾りにするのだという。アデルも一つつける予定だった。
それなら、花まで含めて仕立てるほうがいい。
リディは内袋を開き、匙で杉を少し取り出した。檸檬の皮も減らし、薄い袋に平らにならす。イネスから小枝を一本分けてもらい、肩のすぐ下で合わせた。花の甘さの奥に、乾いた木が細く通る。薬草の苦みは、近くで探せばまだわかった。
鼻の奥が熱を持ち始めたので、そこで手を止めた。残りを確かめるのは、自分より長く身につける人でなければならない。
「庭の向こうまで歩いていただけますか。戻ってから、強すぎないか教えてください」
アデルは立ち上がった。若い女性のセシルが図案を畳んでついていく。二人が噴水の手前で立ち止まると、セシルが自分の袖の刺繍を広げ、アデルはその端を左手で持った。
空いた椅子に腰を下ろしたところで、卓の紙がめくれた。押さえようとしたリディの手より先に、黒い手袋が端に載った。
エリアスだった。足音は聞こえていたのに、庭師のものだと思っていた。
「お帰りの時刻を過ぎています」
「追加の仕事です。まだ売れる形になっていなくて」
彼は縫いかけの包みを見て、紙を押さえたまま脇へ寄った。リディは鞄から時計を出す。店へ戻るのが遅くなる。けれど今日ここで片手でも使える形を作れれば、次からは同じところで立ち止まらずに済む。
「昨日、衣装を持っていただいたときのことですが」
礼だけならすぐ言えるはずなのに、彼がこちらを向くと、その先を選び直すことになった。
「人の香りが少ない場所、と言ったのは、あなたのそばが確かめやすかったからです。嫌でしたら、次は台を使います」
「衣装を持つことは構いません」
「では、また必要なときはお願いします」
「はい。ただ、持ち方は教えてください」
それで済んだ。気分を害した徴を探すことも、返事の裏を嗅ぎ直すこともできない。リディは紙の上の手袋を見てから、釦を縫いつけ終えたベルトへ向き直った。
戻ったアデルは、今度は自分で包みを留めた。一度目は釦を輪へ入れ損ね、二度目に通した。外すほうはすぐにできた。
「これなら、ミナが出かけていても替えられるわ」
ベルトが輪をもう少し広げるか尋ねると、アデルは首を振って、もう一度留め直した。
そこへ園遊会の支度を見回っていたラウル侍従が足を止めた。胸飾りをつけるほかの客にも、六つほど用意できないかという。リディは残った布と、取り出した杉の量を見た。香材は足りる。だが、店へ帰って六つ縫えば、瓶洗いどころではなかった。
「布の仕立てはこちらへお願いできますか。私は中身を作ります。六つ分の材料代は先にいただきます」
「こちらの裁縫代は別よ」
ベルトが針を置かずに言い、リディは頷いた。
「もちろんです」
ラウルは胸元から鉛筆を出した。注文の控えに書かれたのは、香房ではなくリディ個人の名だった。店名を添えてほしいと言うと、登録のない店を明日の支度帳へ載せるには確認が要る、と返ってきた。
リディはその紙をすぐには受け取らなかった。
「注文は私が承ります。ただし、品の包みには店の札を入れます。取り替えを頼む先がわからなくなりますから」
ラウルは少し考え、客へ渡す外包みならと頷いた。リディは六つと書かれた数字の横へ、前金の額を書き加えた。
帰るころには、楽師たちの音がひとつの曲になっていた。四阿の向こうで、アデルがセシルの胸飾りへ手を伸ばしている。
リディは足を止めた。
左の指が白い花を少し傾け、その下に隠れていた刺繍の葉を、そっと表へ出した。




