第三話 箱の外へ出す香り
王宮の西門で荷車を止められたとき、リディはまず、車輪の下へ足を入れた。坂の上へ押し戻すには二十袋は軽いが、借りた荷車を噴水に沈めれば、香袋が全部売れても足りない。
「セルフィーユ香房です。衣装棚用の再検分に」
「商人は北の搬入口だよ」
「北では西へと言われました。次に東へ回るなら、先に地図をいただけますか」
門番のベルクは困った顔で名簿をめくった。その後ろを、籠を抱えた洗濯女が二人、笑いながら通っていく。パン屋の少年には手さえ振るのに、こちらは店名を言うたびに紙が増える。
坂の下から足音が来た。
「お待たせしました。私の同行者です」
エリアスだった。ベルクはようやく門を開けたが、名簿に書きつけたのは香房ではなく、リディ個人の名だった。
店の荷物を運ぶのに、店として入れない。それでも今日、二十袋を受け取ってもらえるなら、門で争う時間は惜しい。
「荷車はこちらで押します」
「借り物なので、角をぶつけないでください」
「承知しました」
任せてから、客に荷車を押させたことになるのだろうか、と考えた。けれど彼は持ち手を握り直し、石畳の継ぎ目を避けている。取り返すほうが面倒そうだった。
白鷺棟の衣装室では、三人が別々の用事でリディを待っていた。
衣装係のロッテは袋を早く棚に入れたいと言い、会計書記のユストは停止中の品を受領した印は押せないと言い、縫製係のサビーヌは、そもそも今朝届いた衣装の匂いが強すぎると両腕を広げた。
「新しい香袋で、これを何とかできる?」
「何の匂いですか?」
「だから、わからないのよ。甘くて、粉っぽくて。明後日の園遊会に使うのに」
「今日の検分は二十袋です。別の品まで含めるなら――」
「別料金でしょう? それはわかったから、まず衣装を見てくれない?」
「料金を決めるのは私ではありませんよ」
ユストが口を挟み、ロッテが天井を見た。
リディはまだ鞄さえ下ろしていなかった。ここで一人ずつの焦りを嗅ぎ分けていたら、夕方の客に渡す香水も仕上げられなくなる。鼻の奥に昨日の熱はないが、なくなったことと、使い切っていいことは違う。
「先に、私の品を置く場所を見せてください。衣装の匂いと混ざったあとでは、再検分になりません」
ロッテが奥の棚を開けた。空の段には乾いた木と、よく洗われた麻の匂いがある。ここならよかった。
配合帳を広げ、袋の重さと縫い口を確かめてもらう間にも、背後では衣装箱の蓋が鳴っていた。薄桃色の上着がサビーヌの腕に渡ると、ふわりと甘い粉の香りが広がる。
菫だろうか。いや、花そのものより、おしろいに近い。
振り向くと、箱の底に敷かれた薄紙の隅へ、小さな紙包みが縫い留めてあった。
「その箱は、いつから使っていますか」
「マレル仕立屋から今朝届いたの。衣装も新品よ」
「薄紙は?」
「そこまで聞いてないわ。古いと何か困る?」
「畳んだ上着の、一番下にあったところを広げてもらえますか」
袖の内側より、背中の裾に甘さが強かった。リディは鼻を寄せず、サビーヌが持ち上げる布から来る香りを待った。刺繍の糸が光るたびに甘さが届き、腕を下げると薄れる。
衣装全体に香水を振ったのなら、ここまで偏るだろうか?
「その小さな包み、外せます?」
サビーヌが糸切り鋏を差し込み、ロッテが受け取った。
「ああ、これ。冬服をしまうときの香りだわ。去年も嗅いだもの」
「箱だけ使い回したのではありませんか。紙に油染みはありませんし、衣装より、この包みがずっと強いです」
「じゃあ、新しい袋を多めに入れれば?」
「甘いところへ木の香りが増えます」
「甘くなくなるんじゃないの?」
「砂糖を入れすぎたお茶に、お茶の葉を足すようなものです。濃くはなりますけれど」
ロッテが包みを箱へ戻しかけ、途中で手を止めた。
「それは、飲みたくないわね」
笑い声が二つ重なった。ユストまで口元を緩めたので、リディはようやく鞄を下ろした。
香袋を追加で売るだけなら簡単だったかもしれない。二十袋で足りないといえば、三十袋になる。棚にはまだ材料があるし、家賃の残りは今日も減っていない。
けれど明後日、甘い森のような衣装を前にして呼び戻されるのは誰だろう。買った分だけ効くと思わせたら、あの奥様と同じ足し算を、この部屋でも始めさせてしまう。
「衣装を箱から出して、裏を返して吊りましょう。窓際の日なたは避けて。薄紙と包みは別の部屋へ移してください」
「香りはつけない?」
「一着だけ、まず何も足さずに待ちたいです。その間に、こちらの検分を終えられます」
「待って取れなかったら?」
「そのとき、残った香りに合わせて考えます。今なら、余計な材料代はかかりません」
サビーヌはもう上着を裏返していた。ロッテが廊下へ声をかけ、洗濯女のテレザが空の衣桁を押してくる。たちまち人が増え、リディは棚と窓の間を何度も横切った。
「ノルデン様、そちらの紐を――あ、いえ、監察官に頼むことでは」
「どこへ結びますか」
エリアスはロッテから紐を受け取った。高い横木へ難なく手が届き、その袖口から覗いた手首を、リディはつい見てしまった。
これだけ人が動けば、汗も石鹸も髪油も混ざる。その中で彼だけが、目を離すとどこにいるのかわからない。
不便だと思っていたのに、今はその空白のそばでなら、上着に残る薄い香りを拾いやすそうだった。
「こちらを持っていただけますか」
頼むと、彼は上着ではなく、リディの顔を見た。
「検分に必要ですか」
「衣装のほうです。人の香りが少ない場所で確かめたくて」
一拍置いて、上着が彼の手に移った。
気を悪くしただろうか。人の香りが少ない、などと、ずいぶん妙な頼み方をした。なぜあなたは無香なのか、と聞くより失礼だったかもしれない。
「重くはありませんが、長く持つなら教えてください」
「……はい。腕が疲れる前に済ませます」
返事はそれだけだった。嫌なのかどうか、やはりわからない。ただ、刺繍を握り潰さない持ち方をしているのは見えた。
棚用の一袋を吊るし終えたころ、裏返した上着の甘さは、部屋に入ったときより薄くなっていた。完全には抜けていない。それでもサビーヌは自分の袖と嗅ぎ比べ、残りの衣装も出すと決めた。
二十袋の受領欄にロッテが署名し、エリアスが今回の品に対する停止解除の書面を添えると、ユストはようやく印を押した。
「お支払いは?」
「受領後、会計に回して十日ほどです」
十日。家主の顔が、香りより鮮明に浮かんだ。
「昨日の検分料の残金は、本日お渡しできます」
エリアスが言った。銀貨二枚では全部は埋まらないが、空の荷車だけで帰るより、はるかにいい。
道具をしまっていると、サビーヌが衣桁の向こうから顔を出した。
「明日も来られる? 残った匂いを見てほしいの。香りを足すなら、あなたに頼みたいわ」
「午前は店があります。午後、一時間なら」
「ユスト、聞いた?」
「聞いています。まだ金額を聞いていません」
リディは鞄からしまったばかりの帳簿を取り出した。
今度は、開いた頁を三人が覗き込んできた。




