8救いの手
怒りに任せて私は吐き出した。幸野君は慄くように私から離れる。綺麗な瞳には、驚愕と―――幽かな畏れが。
私が怒らないとでも思っていたのだろうか。私は基本的に物静かだが、理由は怒りに身を任せるほどの関係がどこにもないからだ。
激情型だという自覚はある。
「誰にだって何かあるのよ!子供を流産した母親だったり、父親がいないお家だったり、すごく厳しくて自由のない子供だったり。
毎年何人がなくなってると思うの?
その分身近な人は欠損を抱えて生きているはずだわ!
苦しいことがない人なんていないのよ」
たまに、私は考える。どうして私は生きているのだろうって。
どこかで誰かがいつだって死んで行く。
それなのにどうして私は生きているのだろうって。
そこに理由は見つからない。ただ、私は生きていて、誰かは死ぬのだ。もしかして、私は明日死ぬかもしれないけれど、到底死にそうにない恵まれた生活をしているのだ。
ニュースは悲しいことに満ちている。私にそれがどのくらい辛いことなのかは分からない。どうして彼らは、それでも死なずに生きているのか考える。
きっと。きっと皆、乗り越えるのだと思った。誰かと手を取り合って。遠方の国に希望を見つけて。生きるために。
「………ごめんなさい。言い過ぎたわ」
だんだんと冷静さを取り戻した私は、酷いことを言ったと思った。
幸野君が己のことを考えるように、私は自分のことしか考えなかった。
「………桐ケ谷さんは、悪くない。僕が悪かった。ごめん、なさい」
幸野君はばつの悪いような表情で謝る。私は、自分が酷く身勝手なことを言ったなと改めて顔に血が上る。
「私、こそ」
ひろき君を、売り物にしてしまった。同情を買うための、売り物に。
罪悪感が、身体中に鉛を流し込んだみたいに浸透する。体が重くて、息が苦しくて言葉が紡げない。
「私、…こそ………、幸野君にしないでって思ったことをしたわ。私の兄は、知的障害者だけど、それは誰が悪いわけではないもの。兄のせいで、私が不幸になるわけじゃないの。なのに私は、そうみたいに言ったわ。同情を引こうと、したのよ…」
訥々と、必死に伝えようとする。弁解をする。
私は多分、幸野君に、あまり不幸な振りをしないで欲しかったのだと思う。不幸せは人の同情をもらえるけれど、対等な関係を築くことはできないから。
けれど私は同じことをした。
いや、もっと酷いことをした。
怒りで立ち上がっていたが、力が抜けてすとんと座り込む。
「………ごめんなさい。私…」
上手な言葉は出てこない。真っ白になった脳みそは働いてくれなかった。
「………………桐ケ谷さんのお兄さんって、どんな人」
怒りや恐れが、幸野君の側からすっかりなくなってしまったみたいだった。私の激情についていけなかったのかもしれない。
幸野君は、私の隣に座って聞いた。
「……私は、生まれたときからひろき君と一緒だったから、あまりおかしいことだと思ったことはなかったの。
無垢で、純粋で、可愛い家族よ」
年上だけど、私は守ってあげたくなる。
自分の家族を誇れると私は思っている。どこにもこそこそすることはないんだと。けれど、両親がどう思ってるのか、分からない。
いとおしく思っているとは思う。きちんと愛してくれていると思う。けれど、どこかでひろき君を恥じているのかもしれないとも思う。それは、私だって。
昔、こんなことがあった。
ひろき君と母親と、散歩に行ったことがある。学校の側まで、休みの日に。私は嬉しくて、先頭を歩いていたら、だんだん距離が空いてしまった。
遠くに学校の人が見えた。私は家族と一緒に歩いて見せようと思った。ひろき君が大好きだから。私が近づくと、けれど母は離れて。
何故だと尋ねたら、ひろき君と一緒にいるのを見られない方がいいからと母親は言った。
私は納得した。けれど、ひろき君が周りと違いすぎることも、はじめて知った。
少しだけ、昔の話をした。幾度か、そんな機会はあった。家族の違いを、認めざるを得ない機会が。
「………」
「でも、私たちはみんな、ひろき君のことを愛してるのよ。大好きなの。そのはずよ」
言い訳なような言葉。幸野君は、すっかり黙ってしまったかと思った。
別のことを考え出したとき、幸野君はぼそりと言った。
「桐ケ谷さんの家族は分からないけど、桐ケ谷さんはお兄さんが好きなんだね」
その言葉に、救われた気がした。嬉しくて嬉しくて、身体中がふわふわして、空だって飛べてしまいそうだった。
だから、私は調子がよくなって、幸野君に言った。
「……無理にね、誰かと仲良くする必要はないと思うの」
好きでもない人と友達だ、親友だと言って、何になるのだろうか。それをしている私は言う。
「………桐ケ谷さんは、友達が沢山いるからそうやって言えるんだ」
思った通りのことを返された。それは多少私に痛いところのある言葉だったから、詰まりながら返事をする。
「…うん。私も前までは、自分には沢山友達がいるんだって思ってたわ。でもね、気づいちゃったの」
今までの私じゃきっと気がつけなかった。
愛を知らなければ、孤独の寂しさなど感じないと何かの物語で書いてあった。その通りだ。本気で誰かと付き合わなければ、上辺だけの空しさを分からないのだ。
「私は、…なにかしらね。誰かと話してて愛想笑いばっかり浮かべてるわ。それが普通だと思ってたけど……多分、普通じゃなかったのね」
友達の話題についていけない。テレビは見ないし、好きな人だっていない。私の話を聞いてくれる人もいない。みんな、本を読まない。興味の欠片すらない。
「楽しいと思うことも、あったとは思うけど…本を読む方がずっと楽しかった」
「贅沢だ」
「友達って、なにかしら」
「………………………」
「多分ね、私には最初から友達なんていなかったのよ。それはさ、すごくさびしいことだと思ったわ」
顔をさげて私はすぐに塾の宿題を再開する。
私は、自分を恥ずかしいと思った。ずっと友達だと思っていたのに、どうしようもなく薄っぺらい関係しか築けていない。本気で誰かと仲良くしようとしなかった自分が、情けなかった。
それから私たちは無言でいた。
私は幸野君にどう思われていたのかと考えると、顔をあげられなくて。
帰り際になって幸野君が言った。
「友達は、いる。僕は、友達、だと思ってる」
それは、なんだろう。
目の前の男の子は何をいっているのだろう。
頬を紅潮させて、私を見つめる、私より小さな男の子。でも頭がよくて、話が合う。
彼は、今の話を聞いていて私に言うの。
「…………ぇ」
涙が。どうしようもないぐらい胸が詰まって、私はしゃがみこんだ。
「ど、どうしたの!?嫌だった?」
「…っうぁ……」
返事など出来なくて、嗚咽をこぼしながら首を振った。涙で顔がぐちゃぐちゃで、嬉しくて、苦しくて、心が痛かった。
幸野君は、ずっと私の側にいて、恐る恐る背中を撫でた。




