第三章 経文の護り
「……呼ばれてる、って、どういうことだよ?」
透真の声が震えていた。
部室に落ちた琵琶は、誰も触れていないのに微かに弦を鳴らしていた。
その音はまるで、笑っているようにも、泣いているようにも聞こえる。
芳子はゆっくり立ち上がり、ギターケースを抱きしめた。
「……昨日の夜、夢の中で弾いたの。海の底で。
それが、現実になってた」
「待て、それ……どういう――」
言いかけた透真の声を遮るように、スマホが震えた。
画面には「非通知」の文字。
芳子が恐る恐る応答ボタンを押すと――。
『芳子……今宵、また弾いてくれ』
男とも女ともつかない声。
聞き覚えのある、あの海底の響き。
思わず手が震え、スマホを取り落とした。
「だれ……?」
通話はもう切れていた。
ただ、画面にはいつの間にか文字が浮かんでいる。
【平家寺へ】
夕方、寺を訪ねると、住職・玄照が境内を掃いていた。
風に白髪が揺れる。
彼は芳子の顔を見て、静かにため息をついた。
「……また、呼ばれましたか」
芳子は頷いた。
「音を止めようとしても、勝手に鳴るんです。
誰かの声といっしょに」
「やはり、“名”を知られてしまったかもしれませんな」
「名を……?」
「彼らは音に飢えている。
その音の主の名を知れば、永遠に自分たちの奏者にできる」
「じゃあ、どうすれば」
「護りを強めましょう」
玄照は奥の本堂へ芳子を案内した。
畳の中央に座らせると、古びた桐箱を取り出した。
中には、**墨染めの頭巾と黒衣**が丁寧に畳まれていた。
「これは“経衣”と呼ばれるものです。
平家供養の僧たちが、霊前で着用したもの。
布地の裏には経文が縫い込まれています。
これを身に着ければ、名を隠し、霊を惑わせられるでしょう」
「服……なんですか?」
「ええ。夜、霊が現れても、決して頭巾を外してはいけません。
声も出してはいけません。
あなたの名を知られなければ、無事に夜明けを迎えられます」
芳子は頷き、頭巾と黒衣を手に取った。
少し重い。布の中に、文字の密度が感じられる。
まるで「祈りの重さ」が形になっているようだった。
「……これを着てるだけで、守られるんですか?」
「信じる心も、護りの一部です」
玄照は静かに言った。
夜。
部屋の灯りを落とし、芳子は経衣を身に着けた。
墨色の布が肌に触れるたび、微かな音がする。
布の裏の糸が、ささやいているように。
(大丈夫……これで、もう呼ばれない)
そう思ったのも束の間。
窓の外で、チリン……と鈴の音が鳴った。
耳を塞いでも、胸の奥でその音が鳴り響く。
目を閉じても、誰かの気配が消えない。
『芳子……なぜ、返事をせぬ』
(ダメ、声を出しちゃ……)
『芳子……』
喉が勝手に震える。
呼吸のたび、唇が震える。
(だめ、だめだめだめ――)
『芳子……名を呼ばせてくれ』
その声と同時に、布がふわりと浮いた。
頭巾の端を、誰かが掴んだような感触。
「――っ!」
芳子は必死に押さえた。
けれど、次の瞬間。
ふっと風が吹き込み、頭巾がはらりと落ちた。
世界が反転した。
部屋が消え、足元が海になる。
琵琶の音が響き、亡霊たちが現れる。
その中心に、金の甲冑をまとった男がいた。
「芳子……われらの供養を、もう一度」
「……でも、住職さんが……」
「そなたの音こそ、われらの救い」
芳子は震える手でギターを握った。
指先が勝手に動く。
音が鳴るたび、亡霊たちは安堵のように消えていく。
でも――最後の一人、武者だけが残った。
「美しき奏者よ。
そなたの名を、聞かせてくれ」
「……だめ、です」
「名を、言え」
声が海を震わせる。
体が凍りつく。
頭巾を失った彼女の耳に、冷たい指先が触れた。
「これが、そなたの“名”か」
男の声が微かに笑った瞬間、
世界が弾け飛んだ。
朝。
本堂の畳の上で、芳子は倒れていた。
玄照が駆け寄る。
「……夢、じゃないですよね」
「ええ、現です」
「昨日、服を……着ていたのに」
「……まさか……」
玄照は経衣を手に取り、縫い目を確認した。
そして凍りつく。
「……耳の部分に、経文が縫われておらぬ……!」
その瞬間、境内のどこかで琵琶の音が鳴った。
それは――まるで“合図”のように。
夜。
風が吹き抜ける本堂の隅に、何かが置かれていた。
小さな白いもの。
それは――耳だった。
きれいに切り取られた二枚。
その横で、芳子のギターが静かに横たわっていた。
弦は一本も切れていない。
ただ、微かに――誰かが弾くように、鳴っていた。
「……これで、終わったのですね」
玄照が手を合わせる。
だが、夜風が吹くたび、境内の隅で布が揺れた。
経文の縫い糸が、まるで“声”のように震えている。




