第二章「夜に響く平曲(へいきょく)」
目を開けると、芳子は寺の本堂にいた。
どうやってここに入ったのか、まるで思い出せない。
足元の畳はしっとりと湿っていて、かすかに潮の匂いが漂っている。
「……ここ、どこ……?」
月明かりが障子を透かし、淡い銀色の筋が床に落ちている。
その中に――ひとりの僧侶の姿があった。
「ようやく、お目覚めか」
低く、穏やかな声。
白い袈裟をまとった老僧が、琵琶を抱えて座っていた。
住職・玄照。平家寺を守る最後の僧。
「夜の山に入るとは、危のうございますぞ、芳子さん」
「……ごめんなさい。気づいたらここに……音がして……」
「音、か」
玄照の目が細くなる。
その眼差しは、優しさと恐れが混じったようだった。
「あなたには“聴こえる”のですね。彼らの声が」
「……彼ら?」
「平家の亡霊たちです」
その言葉に、芳子は背筋がぞくりとした。
「この寺は、壇ノ浦で滅んだ平家の霊を弔うために建てられました。
毎年、慰霊の法要をしておりますが……時折、音に惹かれて彼らが目覚めるのです」
「音に……惹かれる?」
「あなたの奏でる音には、“形”がある。
亡霊たちはそれを見つけ、寄ってくるのです」
芳子はギターケースを抱きしめた。
思い出した。あの夜、確かに自分は弾いた。
誰かが泣いていた。海の底で。
「でも、私はただ……」
「弾いてはいけません。彼らはあなたを“自分たちの琵琶法師”と思ってしまう」
「そんな……」
「今宵より、決して夜に演奏してはいけません。
どうしても外に出るときは、これを身につけなさい」
そう言って、玄照は小さな木札を差し出した。
朱塗りの表面には細かい梵字が刻まれている。
「これは“名を隠す符”です。
霊たちは、名を知ることであなたを捉えます。
名さえ知られねば、害をなすことはできません」
芳子は頷き、木札を首にかけた。
だが、その晩――彼女は夢を見た。
夢の中。
海。
真っ黒な海の底で、無数の手が伸びてくる。
「芳子……芳子……」
声が重なる。
男女も子供も、皆が同じ調子で呼ぶ。
波の音とともに、琵琶の旋律が遠くで響いていた。
“われらにもう一度、その音を”
彼女の手に、いつの間にかギターがあった。
身体が勝手に弦を弾く。
音が鳴るたびに、亡霊たちの輪郭がはっきりしていく。
鎧をまとった武者、髪を乱した女、子を抱いた母。
その誰もが、涙を流していた。
「どうして、泣いてるの……?」
「聴こえぬのだ……われらの最期の声が……」
「だったら……私が、弾く」
その瞬間、海が光り、亡霊たちが一斉に顔を上げた。
耳鳴りのようなざわめきの中で、芳子は目を覚ました。
朝。
制服に着替えながら鏡を見ると、頬に小さな塩の跡がついていた。
寝汗じゃない。涙のあと。
「……夢、だよね」
そう呟いたとき、スマホの通知が鳴った。
SNSの通知。
アップロードしていないはずの曲の断片が――勝手に投稿されていた。
【#芳子の夜曲】
【この音、聴いたら泣ける】
【誰が弾いてるのかわからないのに再生数10万超え】
「なにこれ……?」
その音を再生すると、背筋が凍った。
聞こえてきたのは、あの夜に弾いた旋律。
自分しか知らないはずの音。
だけど――その奥で、確かに声が混じっていた。
『芳子……われらの名も、奏でてくれ……』
放課後。
再び透真が部室で待っていた。
「お、来たな。昨日いなかったけど大丈夫だったか?」
「うん……ちょっと、変な夢見ただけ」
「そうか。――あ、そういえば、ネット見た?
“芳子の夜曲”ってやつ、めっちゃバズってるぞ。お前の作った曲に似てる」
「……え」
透真がスマホを見せる。
再生ボタンを押すと、スピーカーから例の旋律が流れ出す。
その瞬間、芳子の背後で何かが落ちた。
視線を向けると、部室の隅に立てかけてあったギターが床に倒れている。
誰も触っていないのに。
そして――。
ギターの胴の部分に、指の跡のような湿った跡がついていた。
まるで、誰かが“中から”叩いたみたいに。
透真の顔から血の気が引く。
芳子は小さく息を呑み、呟いた。
「……また、呼ばれてる」




