第十七話 第三夜の二、桜色の蒼き嵐
「ねえ、凪……アンタ知ってたの? この街って、"そういうところがある"って……」
その夜……他の客も梢も拓も寝たころ。雫は凪にたずねていた。小さなろうそくを灯して安宗から奪った本を読みながら。
「……書物で読んだことも、人から聞いたこともある。この星五谷は旅の者が多く集まり泊まる街。ゆえに長い道中で色欲を溜めた者も多く、それを発散させるための遊女も多いと……」
藁を敷いた寝床の上であぐらかいている凪が答えた。顔はそっぽを向いており、声も硬い。
凪の解説は続く。星五谷の宿場町には今、凪たちが泊まっているような木賃宿が多いが、旅籠もまあまあ存在する。しかしその旅籠の実態は、大きく二種類に分かれている。
一つは、盛光たちのような身分の高い者が泊まるための、ちゃんとした旅籠。そしてもう一つは、飯盛女……食事などを提供しながら奉仕をする遊女を置いて男たちを引く、色街の匂いが染みついた旅籠だ。
「そんな街だから……俺は、お前を一人で行かせたくなかったのだ」
真夜中なら女を目的とした男はすでに見繕っており寝床に入っているだろうが、酉の刻から亥の刻(午後4時~11時)までは女を買おうと出歩いている男の数も多い。雫が下卑た男に言い寄られたり……あるいはそれを通り越して捕まったりしないか心配ではあったのだ。忍びだから戦って逃げることもできるだろうが……そのような嫌なことは無いに越したことはない。
『なんだ……凪、ぶっきらぼうだけど、ちゃんとアタシのこと女の子として心配してくれてたんだ……』
雫の胸が少しトクンと跳ねる。顔が熱くなるのは今、春画を見ているからという理由だけではない。
その春画だが……
「安宗様、本当に殿様が言っていた通りの趣味なんだね……」
「盛光様が言っていた通り……?」
「ちょっと凪、そこは大事な情報だから気に留めておこうよ」
初めて大月の七保志家の屋敷で盛光、安宗、慎一郎と会ったとき、最後に盛光は安宗をからかっていた。
―― よいではないか安宗。お前も元気溌剌な町娘とかが好きであろう?
そして実際、安宗が買った春画は、妖艶な遊女などを描いたものではなく、どこにでもいそうな爽やかで元気な炭屋の若き女商人の絵物語であった。強気な彼女が幼馴染の男に強引に迫り結ばれるお話。
「せっかくだから凪も一緒に見ようよ! 彼を知り己を知れば百戦危うからず、だよ」
「何が"せっかくだから"だ、何が"百戦危うからず"だ、どういう状況だ」
突拍子もないことを言う雫に凪は顔をしかめるが、その声は普段の冷静沈着さはなく、早口で焦りが出ていた。
「それに梢や拓がこれを見たらどうするんだ」
「どうせ二人は寝てるし、起きる前に安宗様に返しに行きます……よーだ!」
背後から雫は覆いかぶさり、ばっと凪の前で春画を開いてみせた。開いたのは女商人がとうとうしびれを切らして幼馴染の男に襲いかかる場面。
「なっ、ばか……!」
凪は右手で跳ねのけようとするが、それを左手で抑え込む。この本は安宗の私物だ。万が一破いたりしてしまうと、弁償せねばなるまい。自分がこの本を買いに行くのは正直、昼間の山賊を全て一人で倒す以上に面倒な事態だ。
しかし跳ね除けなかったら跳ね除けなかったで春画の内容が見えてしまう。見まいと思っても見てしまう。着物は乱れてあられもない格好の女の姿が描かれみだらな絵図をばっちり見てしまう。
「あれれー、凪はこういうの耐性ないんでしょうかねぇ~?」
雫はニヤニヤと楽しそうに本の頁を捲っていく。伏せた顔が赤くなっていく凪。
「うーん、これじゃあお姉さんちょっと心配ですなぁ……」
「誰がお姉さんだ、同期だろうが……!」
同い年とかどっちが上とかは簡単に言えない。赤ん坊のときに拾われた自分たちの正確な年齢は分からない。
「じゃあさ、凪……」
背後から雫は凪の耳元にくちびるを寄せて囁く。
「どんな女の子がいい? かわいい妹みたいな甘え上手な女の子がいい? それともここの遊女みたいなお姉さんな人がいい? それとも、この本みたいに元気な女の子がいい?」
「そ、そんなのに答えて隙なんぞ見せんぞ!」
確かに好みの女など持ってしまったら、そのような女に近づかれたときに任務に支障が出る。そうならないよう、忍びたるもの、心を無にして異性には接しつつ、だが相手に好かれ転がせるように接しなければならないと教わっている。
しかし教えをただ受けるのとそれを実践するのとは全く異なる。戦いのときや作戦の時ならいざしらず、この平時に"女"に対抗するには、凪はまだ若すぎた。
「じゃあさ、胸はどう? 大きい方がいい? それとも小さいほうがいい?」
攻め込まれ続ける凪に対し、雫の勢いは止まらない。
「アタシだって、それなりに大きいんだからね? この本の女の人に負けないと思うんだけどなぁ……?」
そう言われると思わず比較とばかりに春画を見てしまう。絵の中の女は、手では収まりきれないのではないかと言うほどの立派な胸を持っていた。これにまさるとも劣らないものが雫にも……?
背後に押し当てられる感触にもつい意識してしまう。その持ち主がくすくすと笑っている。
「お前……そんなに俺をからかって面白いか?」
耳まで真っ赤にして怒る凪に、雫は怯むことなく満面の笑みを浮かべて言い放つ。
「うん、めちゃくちゃ面白い!」
物知りで、普段あれこれと完璧な作戦を立てる知略家のくせに、こういう色に関してはいつも面白いように初々しい反応を見せる。それが雫にとっては面白くていつもからかってしまう。里にいるときからそうだった。
そしてその後の展開もだいたい里にいるときからこうだった。
後ろから抱え込まれるような体勢だった凪の身体が、猫のようにぬるりと動いて、その拘束から抜け出す。
雫があっと驚くより先に、その頭に凪の拳骨が一発振り下ろされる。
「あだっ!?」
「調子に乗るな、寝ろっ!」
ふんっ、と鼻を鳴らす凪に対して、雫はわざとらしくやれやれと首を振ってみせた。
「もー、そんなに余裕なくしちゃってさ。これからの任務、女の子が絡むと大変だよ? 凪、すぐに騙されちゃいそうじゃん」
「……馬鹿を言うな。任務なら、相手が女だろうが子どもだろうが、俺は一切の容赦もしない」
凪の声音にスッと冷たい『忍びの気配』が戻っていた。それはいつもの凪だ。今日の昼に山賊を無慈悲に仕留めた時と同じ凪だ。
安心すると同時に、雫も桃色の熱がすっと覚めた。
「はいはい、アタシが調子に乗りすぎました」
春画を閉じて枕元にしまい、雫はもぞもぞと寝床に横になる。凪も雫に背を向けて寝床に横になった。行灯の日が消されて闇の帷が降りる。
盛り上がっていたところに冷水が浴びせられたような空気であったが……
「おやすみ、雫」
「おやすみ、凪」
必ず挨拶をしておしまいにする。これも里いる時からこうであった。
そのようなわけで今回はうれし恥ずかしちょっぴりお色気青春パートでした。
これは必ずどこかで入れようと思っていたところでした。ちょっと凪が任務中に本当に支障を来さないか心配にはなりますが……
ちなみに春画の女性が炭屋になったのは、この小説を書くために買った、戦国時代の衣装の資料本の炭屋の女の子が可愛かったからです。
そんな感じで次は4日目です。またちょっとバトルがありますが(また一方的ですが)今度は凪たち以外の様子も見れます。おたのしみに。




