第87話 関係の名前
観覧席は、水路に沿って作られた長い木段だった。
僕とリゼは隣に座り、つないだ手を二人の間へ置いた。前を通る人の邪魔にはならない。もう、はぐれるほど混んでもいない。
それでも、リゼの指は僕の指の間にあった。
「手を放さないんですね」
「嫌?」
「嫌ではないです。むしろ、うれしいです」
僕が正直に答えると、リゼの握る力が少し強くなった。
広場では灯り舟の準備が続いている。祭りの係が合図をそろえるまで、まだ半刻あるらしい。今なら話せると思った。
「確認したいことがあります」
「仕事みたいな言い方ね」
「仕事ではないから、余計に間違えたくなくて」
僕は一度、水路へ視線を移した。丸い灯りが流れに揺れている。
リゼとは、異世界へ来たばかりの頃から一緒に仕事をした。僕のやり方を最初に正しく見てくれた。自動化しすぎて失敗した時には一緒に直し、僕が払いすぎれば怒り、休みを取れば隣で本を読んだ。
二人で夕食を食べ、次の休日を予約し、今は手をつないでいる。
「僕とリゼは、今、どういう関係なんでしょう」
リゼは前を向いたまま、しばらく答えなかった。
遠くで太鼓の試し打ちが一度鳴る。その間が、僕にはずいぶん長く感じられた。
「シュウが、また勝手に宿代を払わないように止める人」
「それは前からです」
「休みの日に仕事鞄を隠す人」
「最近増えましたね」
「食事を抜いたら、机までパンを持っていく人」
「いつも助かっています」
「そういう答えでは足りないの?」
僕は困った。どれもリゼとの大切な関係だ。でも、今夜の手の意味を、僕の都合だけで決めたくなかった。
「足りないというより、僕は、リゼを恋人だと思っていいのか知りたいです」
その言葉を口にするまで、自分が何を怖がっていたのか分からなかった。
リゼが親切だから手をつないだだけかもしれない。僕が異世界で頼れる人を求めすぎて、特別だと思い込んだだけかもしれない。聞かなければ、今夜の温かさを失わずに済むようにも思えた。
けれど曖昧なままなら、僕は彼女の善意へ甘える。仕事で条件を確認するようになったのに、大切な人との関係だけ察してもらうのは不公平だった。
今度は太鼓が二度鳴った。
リゼの横顔が、灯り舟より赤く見えた。
「シュウは、どうしたいの」
質問を返され、僕は息を整えた。
「恋人になりたいです。仕事で会うだけではなくて、休みの日も一緒にいたい。困った時は相談したいし、リゼが困った時には頼ってほしい。でも、僕が助けたいからといって、リゼの時間を勝手に使いたくはありません」
「ずいぶん条件が多い告白ね」
「減らしたほうがいいですか」
「減らさなくていい」
彼女は、つないでいない左手で髪を耳へかけた。
「私も、シュウと仕事以外の時間を過ごしたい。あなたが自分を安売りしたら止めたい。止めるだけではなくて、一緒に笑いたい。私の失敗を、正解を知っていたみたいに責めず、一緒に直してくれる人のそばにいたい」
リゼはそこで一度言葉を切った。
「だから、恋人でいいわ」
最後だけ、祭りの音に消えそうな声だった。
「いい、ではなくて、なりたいかを聞いてもいいですか」
「そこをもう一回確認するの?」
「大事なので」
彼女は僕の手を引き、肩を軽くぶつけた。
「なりたい。私もシュウの恋人になりたい」
胸の中にあった曖昧な線へ、名前が付いた。
「ありがとうございます」
「そこは、お礼なの?」
「うれしい時に最初に出る言葉が、これなので」
「では、どういたしまして」
二人で笑った後、リゼは少し真面目な顔へ戻った。
「一つだけ。恋人になったからといって、いつでも一緒でなくていいわ。私は工房へ一人でこもりたい日がある。シュウにも、庭で何もせず過ごしたい日があるでしょう」
「あります。会いたくないという意味ではなくても?」
「ええ。一人の時間を断りとして受け取らない。心配なら聞く」
僕はうなずいた。自由時間を守りたい僕が、相手の自由時間を奪ってはいけない。
「呼び方は変えますか」
「今さらシュウさん、リゼットさんには戻れないわ」
「では今まで通りで」
名前を付けても、全部を変える必要はなかった。
すぐ後ろから、小さなくしゃみが聞こえた。振り返ると、二段後ろでミナがバルド社長の大きな背中へ隠れている。
「聞いていましたか」
「太鼓が大きくて、何も」
「ミナ、顔が笑ってるぞ」
「社長もです」
リゼは恥ずかしそうにしながらも、手を放さなかった。
「会社では、今まで通りですか」
僕はもう一つ確認した。
「仕事の意見は遠慮しない。私が間違えたら言って。シュウが無理をしたら、今までより言う」
「最後だけ増えています」
「恋人分よ」
「僕も、リゼが抱え込んだら言います」
「それでいい」
恋人になったから、全部の考えが同じになるわけではない。むしろ、違うと言える関係を守りたいと思った。
祭りの係が、最初の灯りへ火を入れた。
開始の太鼓が鳴る直前、リゼは僕の肩へ少しだけ寄りかかった。
「これは嫌?」
「うれしいです」
「確認できた」
僕たちは、最初から上手な恋人ではなかった。小さく聞いて、小さく答えるところから始めればよかった。
僕たちは新しい関係のまま、同じ方向を見た。けれど僕は何度も、確かめるように手元へ目を落とした。
そのたび、リゼの指がここにいると答えてくれた。




