第85話 報われない仕事を選ぶ
「どうしてここにいるんですか」
「収穫市を見に来た。ついでに、財布の軽い若者が帰ると聞いた」
「宿代は戻りました」
僕がすぐ答えると、グレンさんは愉快そうに笑った。
「なら、前よりは軽くないな」
彼は街道沿いの茶店へ僕たちを連れていった。屋外の長椅子なら四人で座れる。僕が注文を取りに立とうとすると、グレンさんが杖で地面を一度叩いた。
「今日はわしが払う。座れ」
温かい穀物茶と、焼いた林檎が運ばれてきた。
リゼとミナは少し離れた市の露店を見ることにし、僕とグレンさんだけが長椅子に残った。とはいえ、リゼは振り返れば見える距離にいる。
「報酬をもらえなかったそうだな」
「予算がありませんでした。今回は請求しないと決めました」
「相手に言われて、仕方なくか」
「いいえ。条件を書いてもらってから、僕が決めました」
「それで後悔は?」
僕は少し考えた。
町に水が戻ったことはうれしい。ネルが休めたこともうれしい。作業代がないのは、会社へ申し訳ない。バルド社長には帰って説明しなければならない。
「後悔はしていません。でも、何も損していないとは思いません」
「それでよい」
グレンさんは林檎を半分に割った。
「ただし、『自分で選んだ』という言葉も便利すぎる。頼まれるたび選んだことにしておれば、断れぬ頃と変わらん」
「どう見分ければいいですか」
「断った時の姿を、一度考えたか。失う物を数えたか。ほかの者へ相談したか。それでも引き受けると決めたか」
今回は、日帰りして疲れる案も、会社へ請求する案も、町へ待ってもらう案も考えた。宿代は戻すと書いてもらい、作業代は会社へ相談した。完全ではなくても、前よりは選択肢を見ていた。
「もしネルさんが、僕たちをだますために宿を用意しなかったなら、同じようにはしませんでした」
「事情のある者を助けることと、何をされても許すことは違うからな」
この町には悪意のある人はいなかった。ただ、困って急ぎ、確認が抜け、予算の名前が足りなかった。その事情を理解しても、次の条件まで曖昧にする必要はない。
「世の中には、必ず報われる仕事と、報われるか分からぬ仕事がある。善いことをすれば、いつか必ず金貨になって戻るなどという仕組みはない」
「少し夢がないですね」
「夢を守るために言っておる。必ず戻ると思って差し出せば、戻らなかった時に相手を恨む。戻らないかもしれぬと知って、それでも出すなら、それはお前の選択だ」
僕は、控え帳を開いた。
馬車代と部品代。患者家族の宿代。試作用具。今回の立替。その横には、麦穂村の家、薬房の仲間、運送組合の助け、農家の夕食が書かれている。
戻ってきたもののほうが、金額で数えにくい。
「八割くらいは、何か別の形で戻ってきた気がします」
「残り二割は?」
「戻らないかもしれません」
「その二割を、誰にでも渡すな。お前が守りたい相手へ使え」
僕は、少し離れた露店のリゼを見た。彼女はミナと布飾りを選びながら、時々こちらへ目を向けている。僕がまた財布を開いていないか、確認しているのかもしれない。
「守りたい相手の中に、自分も入れていいんでしょうか」
グレンさんは、呆れたように僕を見た。
「お前が倒れれば、守りたい連中が真っ先に困る。自分を外すほうが、よほど勝手だ」
体力がないことも、休みたいことも、誰かを助ける理由より下へ置かなくてよい。水路の地図へ担当の空白を残さなかったように、僕が守る人の一覧にも、自分の名前が必要だった。
仕事を断れないことと、報われないかもしれない仕事を自分で選ぶことは、外から見ると同じかもしれない。どちらも、僕が時間やお金を差し出す。
でも、選ぶ前に数え、守る物を確かめ、条件を伝えられるなら、中身は違う。
「僕が守りたいものは、多すぎるんです。自由な時間も、仲間も、健康も、安定した暮らしも」
「一つに減らす必要があるのか」
「物語なら、どれか一つを選ぶ場面になりそうです」
「暮らしは物語より欲張りでよい。全部欲しいから、今日は何を譲るか決めるんだ」
グレンさんは、懐から二枚の厚い紙を出した。麦の穂と小さな灯りが金色で刷られている。
「収穫祭の夜の観覧券だ。水路の町から礼にもらったが、わしは人混みが苦手でな」
「報酬の代わりに、僕がもらうのは」
「これはわしへの礼だ。わしが誰へ渡すかは、わしが選ぶ」
理屈がきれいだった。
僕は一枚を受け取り、表を見た。席を管理するため、持ち主の名を書く欄がある。すでに『シュウ』と記されていた。
もう一枚には、『リゼ』とある。
「最初から、二人分だったんですか」
「たまたまだ」
「名前まで、たまたま?」
「年寄りの偶然を細かく調べるな」
券の裏には、観覧席の注意が書かれていた。二人一組で入場すること。途中で席を離れる時は、相手へ声を掛けること。灯りを上げる間は立ち上がらないこと。
「一人では使えない券ですね」
「だから二枚ある」
「リゼが行きたいか、まだ聞いていません」
「なら聞け。勝手に相手の都合まで善意で決めるな」
仕事だけでなく、誘いにも確認が必要らしい。
露店から戻ってきたリゼが、僕の手の券を見た。
「何をもらったの?」
僕は二枚を並べた。
明日の夜、町の広場で灯りを上げる祭り。券には、僕とリゼの名前が最初から並んでいた。




