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第82話 五回目の財布

町から灯り木魔道具社までは、急いでも馬車で半日以上かかる。日が落ちた後に戻る道ではなかった。


ネルは役所へ走り、空き部屋を探した。水番の詰所は狭く、床も濡れている。町長の家は親戚が集まっている。神殿の客間も収穫市の手伝いで埋まっていた。


最後に見つかったのは、町外れの農家が貸す離れだった。二部屋と小さな居間があり、三人なら十分眠れる。ただし、市の前夜なので普段の倍、三銀貨が必要だった。


「役所の支払いは、明日の会議を通さないと出せません」


ネルは帽子を両手で握った。


「僕が確認しなかったせいです。本当に、すみません」


「泊まる場所を確認しなかったのは、僕たちも同じです」


僕は財布を出した。今夜の部屋が必要で、農家へ会議を待ってもらう理由はない。いったん僕が払い、領収の木札をもらえばよい。


三銀貨を数えようとしたところで、リゼの手が財布の口を押さえた。


「シュウ。これで何回目?」


「今回を入れて、四回目くらいでしょうか」


「くらい、ではなくて数えて」


彼女は怒鳴らなかった。宿場町で僕が庭代を出そうとした時より、声は静かだった。だからこそ、僕も適当に笑って終わらせられなかった。


ミナが、仕事鞄から小さな控え帳を出した。グレンさんに言われてから、僕が何を貸したか、払ったかを記録している帳面だった。


「麦穂村へ来た時の馬車代、二銀貨」


「あれは仕事前です」


「でも、村の依頼で移動しました」


「次に、食料札の部品代、五銀貨」


僕はその二つを、村での一回として覚えていた。


「薬房で、患者さんの家族が泊まる部屋を三銀貨。運送組合の試作用具が二銀貨。それから今夜です」


一、二、三、四、五。


僕が財布を開いた出来事は、思っていたより一回多かった。


「村の二つを、勝手にまとめていました」


「まとめると、小さく見えるから?」


「たぶん、そうです」


どれも、その時には払う理由があった。馬車がなければ村へ行けず、札がなければ食料の見える化を試せなかった。患者の家族を夜道へ帰したくなかったし、試作用具がなければ荷物の印は確かめられなかった。


後悔はしていない。でも、後悔していないことと、数えなくてよいことは別だった。


「今回はどうしたい?」


リゼが聞いた。


僕は財布を持ったまま、離れを断る場合も考えた。水番の詰所で椅子を並べて眠る。収穫市の商人へ頼み、一部屋を譲ってもらう。町から一刻離れた農村まで歩く。


どれも三銀貨は減らないが、明日の仕事へ疲れを残す。僕だけなら我慢できると思ってしまう。しかし、リゼとミナまで同じ我慢へ巻き込む理由にはならない。


「この宿を使うこと自体は、必要だと思います」


「私も。聞いているのは、誰のお金として払うかよ」


その違いを、僕は今まで一緒にしていた。必要な支出だから僕が払う、ではない。必要性と負担する人は、別に決めてよい。


ミナは控え帳へ、『町へ請求』『会社へ相談』『本人負担』の三つの欄を作った。今夜は最初の欄へ置く。町が払えなかった時にだけ、次の欄へ動かす。


「僕が立て替えます。ただし、町役所宛ての立替記録を作って、ネルさんと宿の方に確認してもらいます。明日の会議で返せないと決まったら、その理由も聞きます」


「会社の経費には?」


「町から戻らなければ、バルド社長に相談します。僕一人の善意として消さないようにします」


リゼは財布から手を離した。


ネルは、役所の印を今すぐ押せる権限がない。その代わり、『水路調査のため三名が宿泊』『宿未手配は町側の確認不足』と自分の字で書き、署名した。農家の主人も金額と受領日を刻んだ木札を渡してくれた。


「三人分で三銀貨。食事は別。壊した物があれば実費。朝の鐘までに部屋を空ける」


僕は口頭の条件も読み上げ、主人とネルにうなずいてもらった。善意で貸す離れだからこそ、後から『そこまで含めたつもりではない』とならないようにする。


農家の主人は、そんなに堅くしなくてもいいと笑った。


「堅くするためではなく、お互いに安心して眠るためです」


そう答えると、主人は木札の裏へ、追加料金なし、と自分から刻んだ。


僕は三銀貨を払った。


「五回目ですね」


自分で口にすると、銀貨の重さがいつもよりはっきりした。


「この前も払ったけど、今回は戻す道を作った。少し進歩でいいですか」


「半歩ね」


「厳しいです」


離れでは、農家の夫婦が温かい豆の煮込みを用意してくれた。代金には夕食まで含まれていなかったが、水路が戻って洗い物ができた礼だという。僕は受け取ってよいか迷い、リゼに見られる前に礼を言った。


「こういうのは数えないんですか」


ミナが尋ねる。


「受け取ったものも、数えたほうがいいかもしれません」


帳面の反対側へ、夫婦の夕食、三人分、と書いた。


損だけを覚えず、戻ってきた温かさも残す。五回という数字は減らないが、少し違って見えた。


翌朝、まだ収穫市の鐘も鳴らないうちに、運送組合の車輪音が離れの前で止まった。


荷台には、『割れ物、陶札』と大きく書かれた箱が載っていた。

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