第80話 水に強くても歯には弱い
翌朝、管理所の当番表は半月形になっていた。
雨に濡れても文字は残っている。ただし、その文字が書かれた右半分がない。ミズネズミは紙を飲み込んだのではなく、細く裂いて巣へ運んだらしい。水路脇の茂みから、防水紙の白い切れ端がいくつも見つかった。
「水には勝ったんですが」
ネルが、残った左半分を掲げた。
「歯には負けましたね」
ミナは笑うのを我慢しながら、昨夜の当番を聞き直した。幸い、中央門は開いたまま、旧染物路は閉じたままで、水は三本とも流れている。紙が欠けても、すぐ事故になる状態ではなかった。
僕たちは、まず当番表を高い所へ掛け直した。
「これで届かないでしょうか」
ネルが梯子の上から言う。
「水番さんにも届きにくいです」
毎朝梯子を出さないと札を替えられないなら、やがて誰かが下へ戻す。動物除けの箱へ入れる案も出たが、蓋を開ける鍵や蝶番の手入れが増える。金属板なら丈夫でも、文字を書き換えるたび職人が要る。
「紙を毎日取り替えますか」
「それは、ミズネズミへ毎日巣材を配る仕事になりそうです」
水番の一人は、ミズネズミを追い払う薬をまく案を出した。ところが水路の近くでは、強い匂いの薬を使えない。猫を置けばよいという話も出たが、管理所の猫は水を見ると逃げるそうだ。
「動物をいなくするより、かじられて困る物を置かないほうが簡単ですね」
ミズネズミは昔からこの水路にいる。突然現れた敵ではなく、僕たちが好みの材料を置いたから目立っただけだった。
ネルは、昨夜かじられた時刻を知りたがった。しかし、正確な時刻が分かっても、毎晩その前に紙を外す作業が増える。
「知りたいことが、直し方につながるかを考えましょう。今回は何時に来たかより、来ても壊れない表示が必要です」
僕自身、調べられる情報は全部調べたくなる。その癖を止める言葉でもあった。
リゼが、かじられた紙の匂いを調べた。ミズネズミが気に入ったのは、紙そのものより、防水膜に使った植物油と糊だった。試しに普通の紙と防水紙を少し離して置くと、防水紙のほうへ真っ先に寄ってくる。
「動物にとっては、改良品のほうが上等だったのね」
防水という一つの条件だけなら成功している。でも、水路脇には雨以外の条件もあった。
僕は、門の近くにある物を順番に見た。石、木、鉄、瓦の欠片。石は丈夫だが、細かな文字を刻むには重い。木は加工しやすいが水を吸う。鉄は高い。
瓦の欠片を拾い、泥を落とした。
「焼いた土なら、水にも歯にも強いでしょうか」
「ミズネズミが瓦を食べた話は聞きません」
ネルが答えた。
文字をたくさん書く必要もない。門の状態は、普段なら『開』『閉』、作業中なら『触らない』の三つだ。
町の人にも、三つの印を見てもらった。
丸を見て『水が通る』と答える人は多かった。四角は『止まる』より『箱』と答える子どももいたため、中央に横棒を刻むことにした。三角は注意の形として、運送組合でも使われ始めている。別の仕事で覚えた印をそのまま使えば、町ごとに新しい意味を覚えずに済む。
色は、開を青、閉を白、作業中を黄にした。赤い釉薬は高く、焼き上がりが安定しないと食器屋が教えてくれたからだ。『閉なら赤』という最初の案を守るために値段を上げる必要はない。形が主で、色は見つけやすくする補助にした。
一つの門に三枚、町には大きな門が七つ。予備を含めて二十七枚。リゼが概算すると、金属札一式の五分の一ほどで作れそうだった。
「安ければ、割れた時に町で買い足せます」
「特別な仕組みほど、作った会社を呼ばないと直らなくなるものね」
僕たちがずっと来ないと使えない物ではなく、町が自分で続けられる物にしたかった。
僕たちは割れた瓦へ炭で印を描いた。丸は開、四角は閉、三角は作業中。色が落ちても形で分かり、字を読めない人でも覚えられる。穴を開けて紐へ通せば、門の横へ掛けられる。
「当番表は、なくすんですか」
「管理所の中には残します。誰がどこを担当するかを相談するのに要ります。でも、門の今の状態は、門のそばにも置きたいです」
一枚の大きな表へ何でも集めると、その表がなくなった時に全部分からなくなる。全体の予定は管理所。実物の状態は現地。それぞれ必要な場所へ分ける。
ミナが三つの欠片を並べ、目を閉じて触った。
「丸と四角は分かります。三角の先は欠けたら、丸に近くなるかも」
「では、作業中だけ穴を二つにしましょう」
リゼは、瓦へきれいに穴を開けられるか試した。古い瓦は途中で割れ、二枚目は穴の周りが崩れた。紐を通して引くと、三枚目にもひびが入る。
「焼く前に穴を開けた専用品が必要ね。厚さもそろえたい」
近所の食器屋へ聞くと、小皿の修理はできても、新しい陶札をまとめて焼ける窯はないと言われた。町で使う瓦は、東へ馬車で二日の陶器工房から運んでいるという。
「届くまで、紙を高い所で使いますか」
ネルは半分になった表を見上げた。
そのとき、茂みから一匹が出てきた。柱を器用に登り始める。
防水紙を好物だと思ったミズネズミは、僕たちより梯子を必要としていなかった。




