第79話 雨で消えた交替記録
中央門を手動で閉めたのは、三日前の夜番だった。
激しい雨で上流の枝が流れ、門へ詰まりそうになったため、一時的に水を止めて掃除した。作業後、門板を上げる前に交替の鐘が鳴り、朝番へ引き継いだという。
「紙へ書きました」
夜番は、水路脇の記録箱を開いた。
中の紙は湿り、三日前の行だけ墨がほとんど消えている。箱の蓋が少し浮き、雨が入ったらしい。
朝番は、取っ手が開の位置にあるのを見て、門も開いていると思った。夜番は、紙に書いたので伝わったと思った。
僕たちは、三日前の順番を一人ずつ聞いた。夜番は枝を見つけ、手動棒で板を下げ、枝を取り除いた。その途中で南の井戸から呼び出しが来た。取っ手の印は、次に魔力操作するとき困らないよう開へ戻した。紙へ『中央、板閉、朝に開ける』と書き、石を重しに置いた。
夜明け前の横殴りの雨が箱へ入り、墨をにじませた。朝番は、残った『中央』という文字と開位置の取っ手を見た。水量石は門の手前を測るため、正常な光を出していた。
一つ一つは理由のある行動だった。重なったときだけ、閉じた門が開いていることになった。
「僕が、その場にいたら同じ判断をしたかもしれません」
ネルが言った。
「だから、人を覚えて注意するより、状態を二つ並べて確認するんですね」
「はい。取っ手の位置と、門板と、その先の水。三つのうち一つだけ見て終わらないようにします」
リゼは側面の歯車へ、小さな印を二つ刻んだ。魔力で動かした時と手動で動かした時の位置が、外からでも見分けられる。
「仕組みを大きく作り直す必要はないわ。違う状態が同じに見えるのが問題だっただけ」
印なら費用もほとんどかからず、ほかの門にも水番自身で付けられる。ネルは、今夜の当番が回る二か所から試すと決めた。
「口では伝えなかったんですか」
「朝番が別の漏れを見に行き、会えなかった。紙を見れば分かると」
誰も嘘をついていない。門の魔道具も壊れていない。記録と実物の状態だけが、別々になった。
リゼが門板を正しい開位置へ上げる。
水が中央水路へ流れ出した。最初は泥を含んでいたが、しばらくすると澄んだ水になる。
すぐに家の桶へ流してよいか、リゼが水質石で確認した。乾いた水路にたまった土が流れ切るまで、中央の最初の二つの水口は開けない。町の人にも理由と予定時刻を伝えた。
「直った」と叫ぶのは簡単だ。でも、使える状態まで戻って初めて終わりになる。
半刻後、最初の家の桶へ澄んだ水が落ちた。列にいた女性が、今日は畑へ間に合うと笑う。乾いた水路で遊んでいた子どもたちは、今度は流れてくる葉を追いかけた。
町の人たちが歓声を上げた。
ネルは喜ぶより先に、全門の取っ手と板が一致しているか確認しようとした。
「今日、全部見る必要はありません」
「同じことが別の門でも起きていたら」
「まず、取っ手だけでなく門板を見る手順を、交替時に一回入れましょう」
水番二人が、交替するとき一緒に現地を見る。開閉した門と、例外があった場所だけ。全部の水路を二人で回らない。
実際に夕方の交替で試した。昼番が『中央門、通常』『旧染物路、月一点検へ追加』と口にし、夜番が同じ言葉を返す。それから二人で中央門へ行き、取っ手、板、その先の流れを指で示した。
十分もかからなかった。
「毎回二人で全路を回るなら続きませんが、変えた所だけならできます」
年上の水番が言った。
ネルは、『何もなかった場所』は一人確認、『状態を変えた場所』は交替時に二人確認、と当番表の端へ書いた。確認を増やす場所にも、増やさない場所にも理由ができた。
新しい当番表を作った。
朝、昼、夜の三列。担当する主路。交替時に見る門。口頭で伝えること。紙が濡れても、二人が同じ実物を見る一手間を残す。
「防水紙を使いますか」
リゼが持ってきた紙は、水を弾く薄い膜で覆われていた。雨でも墨が流れにくい。
水路管理所の外壁へ板を付け、当番表を掛けた。誰がどこを見るか、今日の三人が自分で札を置く。
ネルは中央門の欄へ、『板と取っ手』と太く書いた。
「これなら消えません」
雨を少しかけても、文字は残った。
管理所の前で、町の人たちが小さな湯を沸かしてくれた。僕たちは仕事が終わった祝いというより、水が戻った日常の中へ混ぜてもらうように、薄い薬草茶を飲んだ。
ネルは湯気の向こうで、新しい地図を何度も眺めた。ただし、今度は確認のためではなく、明日の当番へ渡すためだった。
「僕一人が全部覚えていなくても、回りますか」
「回るように作りましょう。ネルさんが休む日も、水は流れないと困りますから」
彼は休むという言葉に、少し困った顔をした。自分が見ていない間に何か起きるのが怖いらしい。その不安も、あとで一度に休ませるのではなく、短い交替から試せばよい。
僕がそう考えていると、リゼが横から言った。
「その助言、シュウも自分へ適用してね」
「僕は翌週に休みを移しました」
「まだ取ってはいないわ」
ネルまで小さく笑った。水路と一緒に、僕の予定も実際に流れるところまで確認が要るらしい。
僕たちが安心した直後、水路脇の草むらから小さな動物が顔を出した。
丸い耳、長い前歯、水に濡れた灰色の毛。この町ではミズネズミと呼ぶらしい。
一匹が当番表の端へ近づき、匂いを嗅いだ。
「紙は食べないでしょう」
ネルが言う。
ミズネズミは防水紙へ歯を立てた。
もう一匹も現れ、当番表の角をかじり始めた。




