第66話 紙を食べた山羊
ボルクが台帳を引き戻したとき、紙の三分の一はモコの口に入っていた。
山羊は離そうとせず、ボルクと紙を引っ張り合った。
「放せ、今日の荷物だ!」
「強く引くと全部破れます」
ミナが干し草を一束持ってくると、モコはあっさり台帳を放した。紙の代わりに草を食べ始める。
「最初から餌で呼べばよかった」
ボルクの手には、歯形の付いた紙が残った。誰も怪我をせず、山羊も叱られずに済んだ。
ルカが濡れた部分を布へ広げる。読める文字を無理にこすらず、乾くまで触らないことにした。
「魔法で元に戻せますか」
「紙の繊維はつなげられても、食べられた墨は戻らない」
リゼが答えた。
高価な修復魔法を使っても、失われた情報は推測するしかない。なら、残った現場の札から事実だけを集める方がよい。
濡れた端が破れ、午前に出発した四台分の行が読めない。受付の女性は青ざめた。
「全部、私が書き直します」
「まず、今動いている荷物を確認しましょう」
台帳を元どおりにするより、荷物が迷わないことが先だった。
荷ほどき場を見る。
食料区画には丸札の荷が二組。道具区画は一組。衣類はなし。特別区画には薬箱が一つ。出発済みの場所は空で、外側の形札も外れている。
「どの車が出ましたか」
受付の女性は、壁の鍵を指した。御者は出発時、自分の荷車札を持っていく。残っている鍵は待機中。四人分がない。
「鍵だけで、出発したと判断していいですか」
「御者が昼食へ持っていった可能性もあります」
受付の女性は外を見た。四台の停車場所が空で、馬もいない。鍵と実物の両方が一致して、出発済みと判断できた。
御者の家族が、予備の上着を取りに鍵を借りることもあるという。その場合は、停車場所に馬車が残る。今後も、鍵だけを絶対の記録にはしない。
形札の箱には、出発前に作った予備が四枚減っていた。丸、細長、革、丸。扱いの違う四便が出たことも確認できる。
紙がなくても、組合の仕事には小さな事実がいくつも残っていた。
御者名は分かった。
宛先は、机に残った荷札の控えと、返却待ちの形札からたどれた。麦の丘、赤炉工房、薬房、宿場町。どの扱いの荷物かも形で分かる。
受取人へ伝令を送る必要はなかった。出発時に御者が荷札を持っているからだ。ただ、組合へ問い合わせが来た場合は、到着予定を答えられない。
「分からないと答えていいですか」
受付の女性が不安そうに聞く。
「今は推測で時刻を言うより、『台帳が破損し、御者が戻るまで確認中』と伝えましょう」
ボルクは入口へ短い札を出した。問い合わせが来た一人の客は、事情を聞いて「夕方にもう一度来る」と帰った。分からないことを隠さなくても、組合への信頼はすぐ壊れなかった。
到着予定だけが紙と一緒に食べられたが、道の距離からおおよそ推測できる。
「荷物は戻さなくてよさそうです」
僕が言うと、受付の女性は椅子へ座り込んだ。
「紙がなくなったのに?」
「荷札と形札は、それぞれ荷物と御者に残っています。今日の配達を終える情報はあります」
ボルクはモコを叱ろうとしたが、山羊は何も知らず草を食べている。
「紐を結ばなかったのは誰だ」
「人を探す前に、結んだと分かる方法を作りませんか」
朝の山羊当番は、三人が交替でしていた。今日は一人が餌、別の一人が水、三人目が係留をしたつもりだった。役割を細かく分けた結果、全員が誰かが結ぶと思ったらしい。
「一人へ全部任せますか」
「休みの日に困ります」
餌と水は今までどおり分け、最後に輪を柵へ移す担当だけ日替わりで一人決める。札に名前ではなく、朝の受付、昼の荷運び、夕方の掃除という仕事の印を付ける。誰がその仕事かは当番表で分かる。
人が替わっても、係留という役割が消えない形にした。
モコの紐を柵へ掛けるだけでは、結んだように見える。結び目へ赤い大きな輪を付け、輪が柵にあれば係留中、餌箱にあれば自由時間とした。朝の当番が輪を移し、夕方に戻す。
「山羊にも当番札ができた」
ルカが笑う。
台帳を置く机も、パンを食べる場所から離した。紙の上へ透明な薄板を置き、風と食べ物の汚れを防ぐ。高価な魔道具ではなく、宿場の古い窓板を再利用した。
午後、四台の御者が順に戻った。
一台目の御者は、組合の入口の騒ぎを見て驚いた。
「俺の荷物、分からなくなったのか」
「こちらの台帳だけです。荷札は持っていますか」
御者は胸元から紙札を出した。受取人の印、到着時刻、戻りの荷物。必要な情報は現場で増えている。
残った台帳へ写すのは、宛先、御者、出発、完了だけ。途中で休憩した場所や天気は、事故や遅れがなければ書かない。
四人目が戻るころには、破れた行の復元が終わった。
「山羊が食べた前より、字が少ない」
ボルクが言う。
「今日使う情報は足りています」
食べられたことで、台帳の項目を減らした判断が本当に困らないか確かめられた。
全て正しい場所へ届いていた。御者は荷札へ受取人の印をもらい、形札を組合へ返す。食べられた台帳は、戻った情報で必要な六項目だけ書き直した。
「完全には戻せません」
受付の女性が、天気欄や途中の問い合わせ欄を惜しんだ。
「今日の目的に必要な記録は戻りました。分からない部分を想像で埋めるより、空白へ理由を書きましょう」
『山羊が食べたため不明』。
正直な一行を残した。
その下へ、『荷札と形札から配達完了を確認』と結果も書いた。失敗だけで終わらず、何が残って助かったかを記録する。
ボルクはモコの似顔絵を端へ描いた。次に台帳を複雑にしようとしたとき、山羊でも食べられる紙一枚へ全てを預けないことを思い出すためだという。
「紙を二冊にした方がいい」
ボルクが言う。
同じ台帳を写して別室へ置けば、一冊食べられても残る。ただし受付の仕事は二倍になる。
「形札が控えになりました。紙と同じ内容をもう一度書く必要はありません」
記録を守るため、現場の人を記録作業で埋めない。紙は一冊のまま、出発中の荷物を示す軽い控えだけ考えることにした。
ルカが、モコの前へ木札を一枚持っていった。
山羊は匂いを嗅ぎ、顔を背けた。
「山羊にも食べられない記録が要るね」
子どもの冗談が、次の案になった。




