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第60話 欲しい椅子

仕事ではない自分の話と言われても、すぐには出てこなかった。


年齢は三十二。元の世界でもSE。この世界では灯り木に雇われ、小屋に住んでいる。どれも履歴書のようで、今リゼが聞きたいことではなさそうだ。


「好きな食べ物は?」


「温かい汁物。具が多いもの」


「嫌いなものは?」


「食べられないほどではありませんが、極端に辛いもの」


「朝は早い?」


「仕事なら。休みは寝ます」


「海と山なら?」


「山。海は砂で疲れるので」


簡単な質問なら答えられた。リゼは一つずつ覚えるように頷く。


「僕の好みを知って、何に使うんですか」


「次に食事へ誘うとき、辛い店を避ける」


次があることを、彼女は自然に前提にしていた。


「これは、また二人でという意味ですか」


「嫌?」


「いいえ」


答えはすぐ出た。自分の望みが全部分からないわけではないらしい。


「休日は何をしたい?」


彼女が質問を変えた。


「休みたいです」


「休んで、何をする?」


「何もしません」


「それはグレンに言われた担当でしょう。自分で選ぶなら?」


前の世界では、本を読むことがあった。遠くへ出かけるほど体力はない。静かな喫茶店で、知らない人の会話を聞きながら長く座るのは好きだった。


「椅子に座って、本を読みたいです」


「どんな椅子?」


「背もたれが少し倒れて、腕を置けて、寝るほどではないもの」


木陰の古い椅子は背が直角で、長く座ると腰が痛い。それでも使えるので、買い替えるほどではないと思っていた。


椅子の話を始めると、意外に細かな好みが出た。


木製。布張りは雨の日にしまうのが大変なので不要。重すぎず、自分一人でも小屋へ移せる。腕置きは本を支えられる高さ。飲み物を置く小さな台があれば嬉しい。


「ずいぶん具体的ね」


「前から考えていたのかもしれません」


欲しいと言わなかっただけで、頭の中には形があった。


「予算は?」


薬房の報酬は二か月後だが、工房と宿場から受け取った銀貨がある。生活費と緊急用の分を除き、自由に使える額を数えた。


「銀貨八枚までなら」


「宿代を頼まれたら?」


「残りから出します」


「椅子のお金は残す?」


「……予約札を付けます」


財布の中の銀貨八枚へ、心の中で椅子の札を付けた。自分のための取り置きだった。


「欲しいんでしょう」


「今の椅子も使えます」


「質問の答えになってない」


「値段が高いかもしれません」


「まだ見てもいない」


「置く場所も」


「木陰にある」


逃げ道を一つずつ塞がれた。


「欲しいです」


口にすると、少し恥ずかしく、少し嬉しかった。


「誰かに贈られるより、自分で買いたい?」


「はい。僕の生活のために選んだ物だと分かるので」


土地や食器をもらうのは嬉しい。けれど、報酬や贈り物だけで暮らしができると、自分が何を選んだか分からなくなる。


「では、私は椅子を贈らない」


「贈るつもりだったんですか」


「候補にはあった」


「何の?」


リゼはスープを飲み、答えなかった。


リゼは満足そうに魚を一切れ食べた。


「明日、見に行く」


「今日では?」


「もう店が閉まる。明日の朝なら、作った職人にも座り方を聞ける」


欲しいと言ったものを、すぐ予定に入れてくれた。


今度は僕が、リゼの自由時間を尋ねた。


彼女は古い術式を分解するのが好きだという。仕事でなくても、何十年も前の道具を開き、なぜその線を引いたか想像する。姉からは、それも仕事と同じだと言われるらしい。


「僕も言おうと思いました」


「でも、誰かに頼まれたわけじゃない。途中でやめても、明日へ延ばしてもいい。だから趣味」


自由時間かどうかは、している内容より、自分で始め、自分で止められるかで決まるのかもしれない。


「シュウは、どうして自分の欲しいものを後へ回すの?」


不意に聞かれた。


前の世界で初めて給料をもらったとき、両親へ食事を贈った。二度目は妹の学用品。自分用の机を買うつもりだったが、古い机がまだ使えたので後へ回した。


それ自体は後悔していない。家族が喜ぶ方が嬉しかった。


問題は、誰かへ使う方がよいことだと思ううちに、自分へ使う理由だけ厳しくしたことだった。


「人に使ったお金なら、無駄にならない気がするんです」


「相手が要らない物でも?」


「それは確認します」


「自分が要る物は、確認しないのに」


また返す言葉がなくなった。


自分も、確認すべき相手の一人だった。


「困っていないからです」


「腰が痛い椅子は?」


「座れます」


「欲しい物を買うお金で、誰かの宿代を払うのは?」


「その人は今、困っています」


「君の困りごとは、いつなら今になるの」


答えに詰まった。


僕の不便は、明日でもよい。誰かの不便は、今見える。そうやって比べれば、自分の番は永遠に来ない。


「自分のことを優先すると、悪い気がするんです」


ようやく出た言葉だった。


「誰に悪い?」


「分かりません」


「自分の物を先に買う人を、君は悪いと思う?」


「思いません」


「社長が昼食を食べるのは?」


「必要です」


「ミナが休みの日に薬房へ行かないのは?」


「契約どおりです」


「私が使いたい術式の材料を買うのは?」


「楽しそうなので、いいと思います」


他人には認められる。自分だけを例外にしていた。


「僕にも、同じ規則を使えばいいんですね」


「規則というより、許可だけどね」


リゼは僕の杯へ甘い果実茶を少し足した。


「自分からも、もらっていいって許可」


頼まれた相手。休む同僚。困っている客。実際には誰も責めていなくても、僕の中でだけ順番が決まっている。


リゼは答えを教えず、月灯苔の光を見た。


「椅子を買ったら、その分、誰かが困る?」


「困りません」


「なら明日、買うかどうか座って決める」


「はい」


食事を終えるころ、店の外から小さな鐘が鳴った。


一度、長く。二度、短く。


宿場町で使い始めた、配達の遅れを知らせる合図だった。


店主が入口へ出る。僕も立ち上がりかけ、リゼと目が合った。


「行きますか」


「今日は、私たちの担当ではない」


「でも、何が遅れたかだけ」


「明日の椅子が届かないのかもしれない」


鐘はもう一度鳴った。

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