第59話 資料を持ってきた人
夕食招待の日、僕は一時間前から準備をした。
宿場町の最終報告書。空室数の推移。市場の受取時刻表。荷ほどき場の二週間見直し結果。ガント親方の新しい目盛りの説明書。
「何をしてるの?」
リゼが会社の入口で尋ねた。
彼女は仕事用の灰色の外套ではなく、深い青の上着を着ていた。髪もいつもより丁寧にまとめ、月形の小さな留め具を付けている。
「宿場の皆に聞かれた場合、説明できるように」
「招待状をもう一度読んで」
『仕事の相談はありません』。
「相談はなくても、報告は必要かもしれません」
「必要ない」
リゼは僕の鞄を開き、紙束を一つずつ机へ戻した。
「筆記具も置いて」
「料理の感想を書くかもしれません」
「口で言えばいい」
「予定を聞かれたら?」
「覚えている範囲で答える。覚えていなければ明日確認する」
最後に鞄そのものを取り上げられた。
「財布は持っていっていいですか」
「招待だから食事代はいらない。でも、帰りに椅子を見るなら必要」
「ミナさんと社長は?」
「招待状に二人と書いてある」
「皆で行った方が楽しいかもしれません」
「今日は二人で行く」
リゼは言い切った。
そこまで明確に言われると、夕食の意味を考えてしまう。けれど、仕事の打ち合わせではない二人の食事を、何と呼べばよいか分からない。
「服は、これで大丈夫ですか」
いつもの仕事着を見下ろす。袖に墨の跡があり、膝には畑の土が薄く残っていた。
「着替えて」
僕は小屋へ戻り、こちらへ来た日に雇用所でもらった一番きれいなシャツへ替えた。色は地味だが、仕事の汚れはない。
会社へ戻ると、ミナが髪の乱れを直し、社長が何も言わず僕の襟を整えた。
「皆、何をしているんですか」
「外へ出る準備です」
「ただの夕食ですよね」
三人とも答えなかった。
宿場町で守った木陰の椅子は、古くて片脚が少し短かった。リゼは前から、新しい物を一つ買うよう勧めていた。
「今日は買うんですか」
「店が開いていたら見る。買うかどうかは、座ってから」
仕事以外の予定は、決め方まで柔らかい。
星匙亭は、町の川沿いにある小さな食堂だった。扉を開けると、店主が奥の窓際へ案内してくれる。二人用の丸机には、月灯苔を入れた瓶と小さな花が置かれていた。
「本日は貸し切りではありません。いつもどおりの夕食を、ゆっくりどうぞ」
店主は本当に仕事の話をせず、料理だけ説明した。
焼いた川魚。畑の根菜。香辛料を少し入れたスープ。宿場町から届いた固いパンは、薄く切って油で焼いてある。
僕は最初の五分、何を話せばよいか分からなかった。
仕事なら、最初に目的を確認し、聞きたいことを並べる。今日の目的は食事を楽しむこと。確認事項はない。
「天気がいいですね」
窓の外は、すでに夜だった。
「昼はよかった」
「料理がおいしいですね」
「まだスープしか飲んでない」
「店の雰囲気が」
「緊張してる?」
「かなり」
正直に答えると、リゼの表情が柔らかくなった。
「私も少し」
「そう見えません」
「工具箱を持ってこない夕食は久しぶりだから」
彼女も、仕事と切り離された時間には慣れていないらしい。二人とも同じなら、少し安心した。
リゼは魚を切り、僕はスープを飲む。周りの客の声と食器の音が聞こえる。
「静かですね」
「店だから、音はしてる」
「僕たちがです」
「資料がないからね」
彼女は楽しそうだった。
「仕事の話以外なら、何から話すんですか」
「今日、面白かったこと」
僕は朝から思い返した。
会社の軒下で、小さな鳥がリゼの工具袋へ巣材を運ぼうとしていた。ミナが薬草鉢へ水をやりすぎ、鉢の下だけ床が光っていた。社長が昼食のパンを棚へ置き、その棚を三十分探した。
話すと、リゼは声を上げて笑った。
「全部見てたのに、何も言わなかったの?」
「困っていなさそうだったので」
「仕事じゃない観察もしてるのね」
「癖です」
僕自身は面白い人ではなくても、周りの小さな出来事なら話せる。そこから会話は少しずつ続いた。
リゼは、僕が笑う前に一度だけ周囲の顔を見る癖があると言った。皆が笑ってよい場面か確かめているように見えるらしい。
「自覚はありませんでした」
「今も確認した」
指摘されると、何をしても意識してしまう。
僕はせめて宿場町の料理について話そうとした。
「このパンは、受取時刻を三つに分けた店の」
「仕事の話」
「パンの出所です」
「仕組みの説明になりかけた」
次に、月灯苔の瓶を話題にする。
「この光は、魔力の量によって」
「それも仕事」
「リゼの趣味かと思って」
「術式の話は好き。でも今日は、別の話を聞きたい」
「リゼの話ではなく?」
「私のことは、仕事中にもよく話してる。作りたい物とか、嫌いな術式とか」
「好きな食べ物は知りません」
「香辛料の強い魚。甘い物は少し。苦い茶は嫌い」
「今飲んでいますよね」
「君が頼んだから」
僕は自分の分と彼女の杯を交換した。僕が頼んだ果実茶は甘い。リゼは一口飲み、頷いた。
「こういうことは、すぐするのね」
「飲めないなら」
「全部譲る話じゃない。次は、注文するとき私に聞いて」
助ける前に聞く。小さな食事の中にも、同じ境界があった。
「何をですか」
リゼは僕が持ってきてしまった一枚の紙を、胸元から取り出した。鞄から全部戻したはずだが、上着の内側に小さなメモが残っていたらしい。
『宿場町・追加確認』と書いてある。
彼女は紙を二つに折り、さらに二つに折った。
「今日は、シュウの話をして」
「僕の仕事の話なら」
「仕事じゃない方」
彼女は折った資料を、月灯苔の瓶の下へ敷いた。




