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第56話 遅れて届いた目盛り

ガント親方は、看板を地面へゆっくり下ろした。


「怪我は?」


「ありません。ありがとうございます」


古い留め具は根元が錆び、片方だけで看板を支えていた。もう一方も、次の強い風で外れたかもしれない。


「点検札は付いていなかったんですか」


僕が宿組合へ聞くと、ドムは古い帳面を出した。看板は二年前に取り付け、その後は文字を塗り直した記録だけ。金具そのものを見る担当はいなかった。


「壊れてから直すつもりだった」


「落ちる看板は、壊れてからでは遅いですね」


ガント親方は金具の表面を削り、錆の深さを見せた。外からは黒い汚れにしか見えないが、内側は半分ほど細くなっている。


宿場の月一回の点検へ、看板を加えた。毎回外す必要はなく、金具を軽く叩いて音を聞く。赤い粉が落ちる、揺れる、音が鈍いときだけ工房へ相談する。


「誰が聞いても同じ音か?」


ドムが叩くと、親方が首を横に振った。


「同じには聞こえん。だから、正常な金具の音と比べろ」


新しい予備金具を一つ、見本として案内所へ置く。絶対の音を覚えるのではなく、並べて違いを見る。フィンの検査見本と同じ方法だった。


「交換するつもりで、金具を持ってきた」


親方の荷車には、太い看板金具が四つ積まれていた。赤炉工房の印がある。


「誰が頼んだんですか」


「ドムだ。前の金具と同じ物を二つと言われた」


「四つあります」


「同じ物を付けたら、また同じ場所で外れる。上下二つずつで荷を分ける」


親方は短く説明し、古い穴の位置を測った。


「代金は?」


ドムが尋ねる。


「二つ分でいい。残りは俺が変えた」


「それでは工房が損をします」


僕が言うと、親方は僕を見た。


「材料は二つ分で足りる。厚みを変え、曲げ方を変えた。手間は俺の試作だ」


「試作の手間にも価値があります」


「なら、次から四つ分取る。今回は看板が落ちる前に試せた代金だ」


以前の僕なら、相手がよいと言えば黙って受け取ったかもしれない。今回は、無料にする理由と次回の条件まで確認した。


ドムも『次回は新型四つ分』と注文帳へ書いた。善意の試作を通常価格にしないまま続けさせない。


失敗を見つけて追加した分を、急な請求にしない。灯り木で作った契約の考え方が、工房にも残っていた。


ガント親方は、もう一つ長い木箱を持ってきていた。


蓋を開くと、ひびを金属輪で補強した水晶測定具が入っている。灯り木へ戻っていた物を、バルド社長から一日だけ借り直したらしい。


「また直したんですか」


「返した後で、足りない物に気づいた」


測定具を借り直すときも、ガント親方は貸出票を使っていた。目的は新目盛りの校正、期限は一日、破損時は工房と灯り木で相談。僕が最初に道具を持ち出したときより、ずっと整っている。


「社長は、よく貸しましたね」


「リゼの印があった」


「私も設計を見たかったから」


リゼは、親方が送った図面へ二か所修正を入れていた。金属輪の曲がりを読みやすくする溝と、温度目盛りへの影響を分ける補正線。親方一人の恩返しではなく、工房と魔道具師の共同改良になっている。


「僕だけ、知りませんでした」


「驚かせたかった」


リゼが素直に言う。僕のために用意された驚きへ、すぐ費用や責任を聞くのは野暮な気もした。それでも貸出票があるので、安心して喜べた。


箱には温度石のほか、薄い板と小さな重りが増えていた。水晶を板へ当てると、炉の温度だけでなく、物へかかる力を測れる。


「看板の重さを測るため?」


リゼが試す。


「そうだ。ひびを巻いた金属が、力でわずかに曲がる。曲がりを読めば、金具一つへどのくらい重さが乗るか分かる」


測定具の目盛りには、以前なかった一本が刻まれていた。


温度、魔力の揺れ、その下に『荷』。


「この目盛りを足すために、借りたんですか」


親方は頷く。


「ひびを入れた場所で、使い道を減らしたまま返したくなかった」


ひびがあったから金属輪を巻き、その輪のわずかな変形が新しい測定へ使えた。傷を元どおり消すのではなく、別の機能へ変える。


「壊れなければ、この目盛りは生まれませんでしたね」


「壊した方がよかったとは言うな」


「言いません」


失敗を美談にして繰り返す必要はない。起きた損を損として認め、その後に増えた物も別に数える。赤炉工房で覚えた分け方が、道具の形になっていた。


「もう十分直してもらいました」


「それを決めるのは俺だ」


リゼが小さく笑った。僕が「まだ使える」と勝手に終わらせようとしたときと、反対の言葉だった。


「工房の報酬は受け取りました」


「知ってる。これは報酬の返金じゃない」


「では、何ですか」


親方は答えず、看板の位置へ戻った。


フィンから預かったという木札が、箱の隅に入っていた。


『休みの日に妹と宿場へ来ます。部屋を一つ予約してください』


札には、今度は日付、人数二人、部屋一つ、荷物小と必要な情報が全部あった。宿場の受付札を見ずに、フィンが自分で似た形を作ったらしい。


「予約の入口へ、この札を写せばいいですね」


ミナが案内所へ持っていく。


過去の案件から来た木札が、新しい仕組みへ自然につながった。


ガント親方は妹への土産に、宿場の菓子を一袋買った。仕事で来た人が、早く終わった時間を自分の用事に使っている。


工房が残業なしで動き、見習いが休みを取れるようになった。その休みを過ごす場所へ、今度は僕たちの仕組みがつながっている。


親方は新しい四つの金具を付けた。測定具の『荷』の目盛りで、一つずつ重さを確認する。上二つへ偏っていた看板を、四つでほぼ均等に支えられた。


「これなら、風でも外れにくい」


作業が終わると、親方は測定具をリゼへ返した。


「借りたのは一日だ。今日中に戻した」


グレンの教えどおり、返す日まで守っている。


「助かりました」


僕が礼を言うと、ガント親方は一度だけ頷いた。


測定具には、温度でも魔力でもない新しい目盛りが残った。

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