第49話 丸は空か、満杯か
文字を読めない旅人の名は、ベンといった。
彼は絵札を見ても、どこへ指を置けばよいか分からなかった。僕たちには名前欄、人数字段、部屋欄に見えるが、初めて見た人には五つの絵が並んだ板にすぎない。
「一つずつ、聞きましょう」
案内係が人の顔を指し、自分の胸へ手を当てた。
「お名前は?」
「ベン」
係が代わりに書く。月を指し、空を見る。
「今夜?」
「今夜だ」
人影を一つ指すと、ベンは指を二本立てた。外に妻がいるらしい。扉の絵では一部屋。宿の希望はない。
絵だけで全部伝えることはできなくても、会話の順番を示す助けにはなった。
「絵札なら誰でも使える、と思っていました」
ミナが言う。
「使い方を一度説明しなくてもよい道具は、ほとんどないのかもしれません」
受付札の横へ、係が一つずつ質問する順番を置いた。旅人本人が書けなくても、受付が聞いて記録すればよい。書けない人専用の別の流れを作らず、同じ入口を使う。
ベンは最後に、自分の名前が書かれた部分へ親指の印を押した。
「読めないのに、間違っていたらどうする」
「僕たちが声に出して読みます。ベンさんが違うと言ったら直します」
案内係は、名前、今夜、二人、一部屋、宿の希望なし、と順に読み上げた。ベンは全部に頷く。
「これなら、俺の予約だ」
書いた人だけが分かる紙ではなく、本人と一緒に内容を確かめた紙になった。
控え札には、道の縁亭の屋根の印を焼き、案内係が道順を声で教えた。ベンは妻を連れ、迷わず宿へ向かった。
「絵だけで通じなかったのは失敗でしょうか」
ミナが聞く。
「絵があったから、質問の順番を一緒に見られました。役割を変えれば使えます」
リゼの自動板と同じだった。期待した働きをしなくても、別の役割で残ることがある。
翌朝、五軒の宿主を集め、空室数を案内所へ知らせる札を試した。
最初の案は、丸い穴の数だった。空いている部屋の数だけ、小さな丸板を紐へ通す。三室なら三枚。色の意味は使わない。
「丸は、空いた穴みたいで分かりやすい」
ドムが言う。
ところが、北側の宿主は反対した。
「うちでは丸印は、樽がいっぱいという意味だ。丸三つなら三室埋まっているように見える」
市場の穀物屋も、丸は満杯の袋を示すと証言した。一方、南の食堂では、空の皿を丸で描く。
絵なら文化を越えられると思ったが、簡単な形ほど、土地ごとの意味が染み込んでいた。
アーシュにも形を見てもらった。
彼の国では、丸は『終わった』、三角は『まだ途中』。ベンの育った山間では、丸が村の集会、四角が家。子どもたちは丸を太陽だと言い、宿主は樽だと言う。
一つの絵へ一つの意味を持たせるには、結局、皆で覚える必要がある。
「だったら色を統一するのと同じでは?」
ドムが言う。
「町の内側全部を変える必要はありません。案内所で、空きの数を伝える方法だけ覚えればいいです」
共通にする範囲を小さくする。宿ごとの札を捨てず、案内所との受け渡しだけそろえるなら、覚える人も宿主と係だけで済む。
それでも、何を使うかは決まらなかった。
四角、三角、線、穴。どれを選んでも、誰かの店では別の意味がある。
「新しい形を作りましょう」
リゼが、六角形の術式を描く。
「珍しい形でも、覚える必要は残ります」
僕が言うと、彼女はすぐ線を消した。
「では数字だけ?」
数字を読めない旅人や、数え方の違う隣国もある。案が増えるほど、入口の札は複雑になった。
議論の横で、道の縁亭の幼い娘が遊んでいた。
名前はニア。六歳で、まだ文字は読めない。父と母が札の意味で言い合うたび、客室の鍵を机へ並べ直していた。
「ニアちゃん、今、空いている部屋はいくつですか」
僕が聞くと、彼女は壁の鍵を見た。
予約札の付いた鍵を二つ外し、宿泊中の鍵を三つ外す。残った鍵を一本ずつ指差した。
「ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ」
片手の指を全部開く。
「五つ!」
「どうして、予約の二つを数えなかったんですか」
「この紙が付いてるから。お客さんが来るお部屋」
「泊まっている三つは?」
「鍵がないから」
ニアは色を覚えていない代わりに、鍵と予約札という実物を見ていた。空室数を数える元が明確だった。
僕たちは五軒で、何を数えれば空室になるかを決めた。鍵を使う宿は壁に残った鍵。扉札の宿は、掃除済みで予約のない扉。台帳の宿は、今日の日付で名前のない行。
数え方を同じにする必要はない。最後に『受け入れられる部屋がいくつか』という答えだけ、声で案内所へ渡す。
「子どもが指を立てて走る?」
レナが聞く。
「五より多いと足の指も要ります」
ニアが靴を脱ごうとして、皆が笑った。
木札を使うとしても、札だけに意味を背負わせない。配達役が『道の縁亭、今夜、五室』と声に出し、案内係も『今夜、五室』と返す。札は忘れないための控えにする。
「声を間違えたら?」
「相手が復唱すれば、その場で気づけます」
道具を増やすより、一つの短い会話を残す案が見えてきた。
赤も緑も丸も使わなかった。
「案内所の人に伝えるなら?」
ニアは少し考え、もう一度、指を五本立てた。
「ご!」
「何が五つ?」
「今夜、お客さんが泊まれるお部屋!」
必要な言葉は、それだけだった。ニアの声は宿の外までよく通った。
部屋そのものの数を、声と指で伝えればよい。




