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第46話 満室なのに八つ空いている

薬房から日程変更の許可が届き、ミナも宿場町へ同行することになった。


馬車を降りた僕たちを、道の縁亭の夫婦が両側から迎えた。


「あんたがシュウさんね。細いわねえ。まず食べなさい」


妻のレナは僕の返事を待たず、焼いた肉を挟んだパンを持たせた。


「荷物は俺が持つ。若いのは働きすぎるからな」


夫のドムは僕の鞄を取り、さらにリゼの工具箱へ手を伸ばして断られた。


二人とも世話焼きで、声が大きい。半ば強引だが、嫌な感じはしない。困っている人を見ると、先に手が動く夫婦なのだろう。


「契約の確認をしてから、食事を」


僕が言うと、レナはパンを僕の口元へ押しつけた。


「食べながらでいいわよ」


「飲み込んでいる間は話せません」


リゼが笑い、ミナは契約書を開いた。四日間の調査。交通、宿、三食は宿組合負担。報酬は一日銀貨三枚。追加費用は事前相談。土地や設備を使う場合は別契約。


最後の一項を見て、僕はなぜか胸騒ぎがした。


契約書には、町側の責任者としてドムとレナの二人が並んでいた。


「最終的に決める人は、どちらですか」


「二人だ」


「私たちは宿だけでなく、組合の当番も一緒にしてるの」


「意見が違った場合は?」


夫婦は顔を見合わせた。


「今までは、声の大きい方ね」


「だいたいレナだ」


「あなたも同じくらい大きいでしょう」


すぐ言い合いが始まった。ただ、翌日まで決まらないことは、宿組合の他の三人も交えて多数で決めるという。責任者が二人なのは悪くないが、同じものを同じ意味で見ているとは限らない。


「調査中に条件を変えるときは、二人の印をもらいます」


僕が言うと、レナは感心したように頷いた。


「ガントが言ってたとおりね。今度のシュウさんは、ちゃんと紙を出す」


工房の親方が、僕の過去の失敗まで話しているらしい。


「問題は、部屋が空いているのに客を断ることですね」


「そうだ。今日ももう満室だ」


ドムが入口の看板を指した。


赤く塗った木札が十枚、横棒へ掛かっている。上には『満室』と書かれていた。


「十室とも使っているんですか」


「いや、二組だ」


「残り八室は?」


「空いてる」


二階を見せてもらう前に、一組の旅人が入口へ来た。父親と娘で、今夜の部屋を探している。


レナは満室看板を見て、「ごめんなさいね」と断った。父親は空いていそうな窓を見上げたが、何も言わず次の宿へ向かう。


「今の二人、泊まれますよね」


ドムが赤札を数えた。


「二部屋でも泊められる」


彼は外へ走り、旅人を連れ戻した。娘は疲れていたのか、椅子へ座るとすぐ眠ってしまった。


「客が一組増えましたね」


「今日だけでも、朝から四組断ったわ」


レナは自分の判断が間違いだったと責められたような顔をした。


「看板どおりに動いただけです。誰が受付に立っても、空きが分かる方法を一緒に探しましょう」


僕が言うと、彼女は眠る娘へ毛布を掛け、少し表情を戻した。


僕はもう一度、満室の札を見た。


「では、なぜ満室と?」


「赤札が十枚出てるからだ」


同じ言葉の中を回っている。


宿の中を案内してもらった。二階には客室が十室あり、使っている二室の前には緑札が掛かっている。残り八室の扉には何もない。


「入口の赤札は、何を表しますか」


「部屋が空いてる印だ」


ドムは当然のように答えた。


「赤い札が十枚なら、十室空いているのでは?」


「だが看板の上は満室だろう」


看板は、二年前に宿組合が一斉に作ったものだった。上の文字は『満室』と『空室』を板ごと裏返す。下の赤札は、各部屋の状態を示す。


「誰が文字を裏返しますか」


「レナだ」


厨房から妻を呼ぶ。


「赤札が十枚出ていたら、どうします?」


僕が聞くと、レナは迷わず答えた。


「全部埋まったってことだから、満室にするわ」


ドムが目を見開く。


「赤は空きだろ」


「何言ってるの。赤は止まれ、埋まってる、よ」


「うちでは昔から、赤い火が灯ってる部屋は使えるって意味だ」


「その昔の札を組合の看板へ付けるからでしょう」


二人は声を大きくしたが、怒っているというより、本気で互いの意味を初めて知ったようだった。


「今まで、どうやって客を入れていたんですか」


「私が受付なら、満室にして断る」


「俺が受付なら、赤札の数だけ入れる」


「予約帳は?」


夫婦は同時に、別の帳面を出した。


ドムは馬車で来た客、レナは徒歩と手紙の予約を記録している。互いの帳面を見るのは、夕食後だけだった。


「二重に泊めたことは?」


「ある。でも、食堂に寝台を出した」


「客を帰したことは?」


「毎晩だ」


それでも大きな争いになっていないのは、夫婦が自分たちの部屋や食堂を客へ譲ってきたからだった。二重予約の日、ドムは馬小屋で寝る。レナは夜通し食堂の客へ茶を出す。空室なのに断った旅人には、次の宿まで荷物を運ぶ。


「それで何とかしてきたんですね」


「旅人を道で寝かせるわけにはいかない」


ドムは当然のように言った。


夫婦が無理をして埋めたため、札の問題が表面に出なかった。人のよさで動く組織では、優しい人が最後の帳尻を合わせてしまう。


「昨夜は何時間寝ましたか」


リゼが二人へ聞く。


ドムは三時間、レナは四時間だった。


「今日は、僕たちが予約を見ます。二人は昼に一時間ずつ休んでください」


「客が来たら?」


「空室八。予約二。声に出して確認してから入れます」


僕が言うと、ニアが奥から顔を出した。両親が昼寝するという珍しい話を聞きつけたらしい。


「私が起こさないよう見張る!」


休む担当が、また一人増えた。


部屋は空いている。客もいる。夫婦もよく働いている。


同じ宿の同じ札を見て、二人だけが正反対の意味で動いていた。

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