第38話 知っている人を二人にする
ミナは、トマの一日を質問へ置き換えた。
「朝の畑へ行ったなら、その前にパンを食べています。今日は牛乳も一緒。いつもの腰の薬は、昼の鐘のあとに飲むから、まだです」
「どうして知っているんですか」
「先月、薬を届けたとき、畑まで一緒に歩きました。トマさんは毎朝同じパン屋へ寄ります」
トマ本人も頷いた。
「いつもの薬というのは、昼のやつか。それなら今日はまだだ」
セラが残りの質問をし、体調を確かめる。いつもと同じ量で問題ないと判断し、腰の薬を渡した。
「試験に受かったかね」
トマが笑う。
「試験にしてしまって、すみません」
僕が頭を下げると、老人は質問札を一枚もらって帰った。
「次はパン屋で答えを教えてもらうよ」
薬を安全に渡せたのは、ミナの知識があったからだ。ただし、その知識が彼女一人にしかなければ、ミナが休みの日に同じ問題が起きる。
「トマさんの暮らしを、全部台帳へ書きますか」
受付の手伝いが聞いた。
畑へ行く時刻、パン屋、牛乳、昼の鐘。細かく書けば次回は役立つ。しかし暮らしを必要以上に記録するのは、本人にとって気持ちのよいことではない。変われば古い情報にもなる。
僕たちはトマへ、残してよいことを尋ねた。
「朝は食べてから畑へ行く。薬は昼の鐘の後。それだけなら、書いていいよ」
台帳にはその二行だけを足した。パン屋の名前や、何を食べるかまでは残さない。
「本人へ聞くんですね」
ミナが言う。
「自分の暮らしの情報ですから。薬房に必要な範囲を、一緒に決めた方がいいと思います」
異世界に個人情報という言葉があるかは知らない。それでも、人の生活を便利な材料として集めすぎない感覚は、前の世界と同じだった。
セラは、これまでの台帳も見直した。患者の家族構成や好物まで細かく書かれた頁があり、薬に関係する理由が分からない情報には薄い紙を挟む。次に本人が来たとき、残してよいか確認するためだ。
「私、親しくなった人のことを、忘れないよう何でも書いていました」
「書くことが悪いわけではありません。ただ、薬房の皆が読む台帳と、セラさん個人の思い出は分けた方がよさそうです」
セラは小さな私用帳を用意し、患者にもらった花の名前や、孫が生まれた話はそちらへ移した。仕事に不要だから捨てるのではなく、大切にする場所を変える。
「患者さんを数字にしたくなくて、詳しく書いていたんです」
「必要な情報だけにすることも、その人を仕事の材料だけにしない方法だと思います」
セラはしばらく考え、私用帳の表紙へ花の絵を描いた。
午後、セラは当番を二人一組に組み直した。
一人は薬の知識が多い人。もう一人は患者の日常を知る人。毎日同じ組にせず、三日ごとに相手を替える。質問札を一緒に使い、分からなかったことを一つだけ交替時に伝える。
「全員が全部を覚える必要はありません」
僕は当番表へ、二つの円を重ねて描いた。
「薬を知る人と、暮らしを知る人。二人の間に患者さんを置きます」
「二人とも知らなかったら?」
「セラさんへ聞きます。その答えを、次に誰へ伝えるかも決めます」
責任者へ質問することは残す。ただ、同じ質問が毎回戻らないよう、答えが横へ広がる道を作る。
最初の組はミナと受付の女性だった。来たのは、南村の言葉しか話さない母親と幼い娘。受付の女性は土地の呼び名を知り、ミナは薬を知っている。二人で処方紙の『風眠り』が咳静めだと確認し、炎の札を付けた。
二組目は、乾燥職人と調合師にした。乾燥職人は患者をほとんど知らないが、材料の状態を見分けられる。調合師は薬を知るが、畑の天候を知らない。
「今日の朝鳴り葉、青い線がありました」
乾燥職人が伝える。
「なら、いつもの一袋より出来上がりが少ない。補充札を早めに出します」
患者への受け渡しだけでなく、薬を作る前の情報も二人の間を流れた。
三組目では、二人とも同じことを知らなかった。北の集落の薬の呼び名だ。以前ならすぐセラを呼ぶところを、ミナの別名表で調べ、それでも分からない部分だけ質問した。
セラが答える時間は、長い説明から一言へ減った。
セラを一度も呼ばず、薬が渡った。
セラは診察室の扉から、その様子を静かに見ていた。
「私がいなくても、できるのね」
寂しそうではなく、肩の荷が一つ下りたような声だった。
「一時間だけ、診察室を閉めて休みませんか」
僕が提案すると、セラは驚いた。
「まだ患者さんが」
「調合待ちは二人。どちらも通常薬で、当番が進められます。診察が必要な人が来たら呼びます」
ミナも背中を押した。セラは薬房の二階へ上がり、一時間後、眠った跡を頬に付けて戻ってきた。その間も薬は二人へ渡り、新しい患者は一人も待っていなかった。
「休むのも担当のうちです」
グレンの言葉を借りると、セラは「よい先生がいるのね」と笑った。僕が教わった側だとは、あえて言わなかった。
夕方、当番を替える練習をした。長い申し送りはせず、今日迷った患者、在庫が少ない薬、三角札が付いたままの瓶だけを指差す。五分で終わる。
「明日になったら、忘れたことも出ます」
ミナが言う。
「全部を渡すのではなく、明日の人が困ることを渡せれば十分です」
完璧な引き継ぎを目指せば、交替できなくなる。足りないところは質問札と台帳が支える。
薬房を閉めたあと、セラが僕とリゼを調合室へ呼んだ。
「お願いがあります」
彼女は隣にミナを立たせた。
「この子を、灯り木でも学ばせてもらえませんか。薬だけでなく、仕事を見つけ、皆へ渡す方法を」
「なぜ僕たちのところなんですか」
「ミナは、薬を覚えるのは早い。でも、自分の気づきを人へ言うのが苦手です。あなたは、この子の帳面を勝手な物として扱わなかった」
セラはミナの肩へ手を置いた。
「薬師として知ることは、ここで教えられます。知っていることを皆で使える形にする方法は、私も一緒に学びたい」
ミナは緊張した顔で、僕の返事を待っていた。




