第35話 前より苦い
「その瓶、止めてください」
僕が声をかけたとき、調合台には同じ形の黒い小瓶が三本あった。
一つは元の夜森の滴。二つは患者へ渡すため薄めたもの。どれに通常札が付いていたか、手伝いの女性も覚えていない。
「すみません。札がないと探せなくなると思って」
「責めているわけではありません。今は、どれを誰へ渡す予定だったか確認しましょう」
処方紙を集める。木こりと、八歳のシオ。それから、初めて使う旅人の女性。完成した瓶には患者名が巻かれているはずだが、急いでいたため一本だけまだ名前がなかった。
僕は、三本が机へ来た順番を一人ずつ聞いた。
ミナは元の瓶を箱から出した。セラは木こり用を朝に作り、もう渡している。午後、シオ用を先に薄め、旅人用は食事の確認待ちだった。手伝いの女性は丸札を付けた瓶を調合台の右へ置いた。
ところが、別の手伝いが台を拭くため、三本を左へ寄せた。誰も悪意なく、瓶の並びだけが変わった。
「順番を覚えている人はいませんね」
「私がずっと見ていれば」
ミナが言いかける。
「ずっと見なくても分かる形が必要です。今は、記憶で決めないようにしましょう」
分からないものを、分からないまま止めるのも仕事だった。
セラが液体の色と香りを確かめる。
「元の薬なら、もっと苦い香りがします。でも薄め方によって近くなることも」
リゼが魔力を見る小石を当てたが、薬効の強さまでは測れない。魔法道具があっても、薬師の判断を置き換えられないところだった。
「全部、作り直しましょう」
ミナが言う。
「元の瓶がどれか分からないと、作り直す元もありません」
僕たちは三本を一度、赤い布の上へ隔離した。誰も持ち出さない印だ。患者には事情を説明し、少し待ってもらう。
ところが、待合室からシオの声がした。
「お母さん、今日の薬、前より苦いよ」
皆が動きを止めた。
少年は小さな匙を舐めたところだった。母親が、受付脇に置かれた受け取り用の瓶を、もう完成したものだと思って手に取ったらしい。瓶にはシオの名前が巻かれている。
セラがすぐ駆け寄る。
「飲み込んだ?」
「舌に付けただけ。苦かったから、まだ」
シオの母親によると、少年は幼いころから苦い薬が苦手で、毎回ほんの少し舌へ付けてから飲む癖があった。普段ならセラが「一度で飲んだ方が苦くない」と言うところだが、今日はその癖が間違いを知らせてくれた。
「味が違うと、いつも言いますか」
僕が尋ねると、母親は首を振った。
「前にも少し苦い日があったけど、薬だから仕方ないと思って。今日は特に違ったので」
患者が感じた小さな違和感も、薬房へ戻る道が要る。受け渡しの説明へ、『色、匂い、味がいつもと大きく違えば、飲む前に聞く』を加えた。何でも患者に判断させるのではなく、止めて尋ねる合図にする。
シオは得意そうに、「僕が検査した」と母親へ言った。
「味見は検査ではないから、次から勝手に舐めないでね」
セラに念を押され、「でも今日は役に立った」と褒められる。少年は複雑そうな顔で頷いた。
口を水ですすぎ、体調を確認する。害が出る量ではなく、変化もない。セラは念のため少年を休憩室へ連れていき、しばらく様子を見ることにした。
「前と違うと教えてくれて、ありがとう」
セラが言うと、シオは不安そうに尋ねた。
「僕、悪かった?」
「いいえ。薬を飲む前に止めてくれたから、皆が助かったの」
少年は少し安心し、水をもう一口飲んだ。
僕たちは、その日渡した夜森の滴を全部確認した。朝の木こりには正しい量を渡している。昼前に渡した一人も、セラが直接調合し、記録が残っていた。混ざった可能性があるのは、机にあった三本だけだった。
確認は、患者を怖がらせない言葉で行った。
「間違った薬を渡したかもしれない」ではなく、「今日、瓶の札が一度外れたので、念のため一緒に確かめたい」と伝える。隠さず、まだ分かっていないことを分かっていないまま話す。
木こりは自分の瓶と処方紙を持って戻り、量が合っていると確認できた。昼前の患者へはルカが走って伝言し、まだ飲む時刻ではなかったため、ミナが家で照合した。
大事にはならなかった。ただ、その幸運を理由に調査を省かない。どこまで影響した可能性があるかを区切ることで、必要以上に村中を不安にさせずに済んだ。
手伝いの女性は、何度も頭を下げた。
「私が勝手に札を付けたから」
ミナが先に首を横へ振った。
「私が箱へ大きく書かなかったからです。それに、名前を巻く前の瓶を置いたのも私です」
「箱を作ろうと言ったのは僕です」
三人がそれぞれ自分のせいだと言い始めた。
リゼが机を指で二度叩く。
「責任を奪い合うのは後。今は、残った瓶をどうするか決める」
セラは三本を廃棄し、新しい夜森の滴を少量だけ調合し直した。患者には待った理由を説明する。シオの母親は怒らず、「気づけてよかった」と言ってくれた。
夕方まで様子を見ても、シオの体調に変化はなかった。新しい薬を舐めると、今度は笑う。
「いつもの甘さだ」
薬房に、ようやく息を吐く音が広がった。
皆が片づけを始める中、ミナの姿だけが見えない。裏庭へ出ると、薬草棚の陰にしゃがみ、前掛けで顔を隠していた。
「ミナさん」
「私、薬師にならない方がいいです」
彼女は声を震わせた。
「セラ先生は、一度も間違えないから」
「先生も、昨日、同じ薬を五本見落としていました」
「在庫と薬の量は違います」
「違います。でも、先生が何も間違えない人だから安全なのではなく、違和感を言える人がいて、止めて確かめるから安全になるんだと思います」
ミナはすぐには納得しなかった。それでよかった。怖かった気持ちまで、きれいな説明で消す必要はない。
「名前を付ける前の瓶を置きました。シオ君が気づかなかったら、私のせいで」
何も起きなかった、で終わらせてはいけない。でも、起きかけたことを一人の将来まで背負わせるのも違う。
ミナの膝の上へ、丸い緑札が一枚落ちた。




