第30話 薬はあるのに届かない
薬師の村は、町から馬車で半日ほど北にあった。
道沿いに低い薬草畑が広がり、風が吹くたび、甘さと苦さの混じった匂いが流れてくる。村の入口には薬瓶を描いた看板がいくつも立ち、採取人、乾燥屋、調合師の家が並んでいた。
「薬を作る人が多いんですね」
僕が言うと、御者台のミナが頷いた。
「この辺りは水と土が薬草に合うんです。でも、セラ先生の薬房だけ、今とても忙しくて」
「何に困っていますか」
僕は早速、三つの質問を書いた紙を出した。
「薬はあるのに、患者さんへ渡せません」
「いつまでに?」
「できれば今日。少なくとも、次の市場の日までです」
「こちらが負担するものは?」
ミナは困った顔をした。
「昼ご飯と薬草茶は出せます。宿は薬房の屋根裏が空いています。報酬は……セラ先生が話します」
前より具体的だった。僕はその場で承諾せず、薬房を見てから決めると答えた。リゼが隣で小さく丸を作る。たったそれだけで褒められる段階なのは、少し恥ずかしい。
「報酬の薬草茶は、どのくらいの価値がありますか」
勇気を出して聞くと、ミナは首を傾げた。
「一袋で銅貨二枚くらいです。好きなだけといっても、馬車へ積めるのは十袋くらいですね」
銀貨には遠い。僕が黙ると、リゼは口を挟まず待った。今までなら彼女が条件を直してくれた場面だ。
「仕事の量を見て、薬草茶だけで合わない場合は、別の報酬を相談します」
「はい。セラ先生に伝えます」
断ってはいない。それでも、自分の時間に値段があることを口にできた。リゼは今度ははっきり親指を立てた。
薬房は村の中央にあった。白壁の二階建てで、窓辺には乾燥させた葉が束になって吊られている。中へ入ると、薬の香りより人の声に圧倒された。
長椅子には患者と家族が座り、受付には処方を書いた紙が積まれている。奥の棚には瓶や包みが隙間なく並び、三人の手伝いが右へ左へ走っていた。
「セラ先生、赤い咳止めがありません!」
「北棚の二段目よ」
「そこには冬息の瓶しか」
「それが赤い咳止め。薄める前の名前が冬息なの」
別の手伝いが声を上げる。
「腹温めの粉は?」
「旅人向け? 子ども向け?」
「処方には腹温めとしか」
「書いた人を呼んで」
薬は棚にあるらしい。けれど、名前や用途が少し違うだけで見つからず、渡す順番が止まっていた。
セラは四十歳ほどの女性で、淡い茶色の髪を後ろにまとめ、白い前掛けを着けていた。目の下には疲れが見えるが、患者へ話す声は柔らかい。
「遠いところを、ありがとうございます」
「まだ受けるとは決めていません」
自分で言ってから、少し冷たく聞こえたかと心配になった。
セラはむしろ安心したように笑った。
「ええ。薬房を見て、できないと思ったら言ってください。無理に頼んで、また誰かを泊まらせるわけにはいきませんから」
セラは僕たちを案内しながらも、三歩ごとに呼び止められた。
「先生、この粉の量を」
「小匙半分」
「先生、南村の呼び名が」
「向こうでは風眠りよ」
「先生、昨夜の子の熱は」
「朝に下がったと伝言があったわ」
どの質問にもすぐ答えられる。能力がない人ではない。むしろ、何でも知っていて、誰にでも答えるから、全ての仕事がセラを通るようになっていた。
「先生が休む時間は?」
僕が聞くと、彼女は「患者がいない時間」と答えた。長椅子には七人座っている。
「その時間は、いつ来ますか」
「市場が閉じれば、たぶん」
ミナが後ろで首を横に振った。市場が閉じた後は、翌日の調合をするらしい。
「泊まらせる?」
奥の小部屋を覗くと、旅装の親子が荷物をまとめていた。昨日、遠い集落から来た患者と母親だという。薬がすぐ出ると聞いて一日分の旅費しか持ってこなかったが、処方の確認に時間がかかり、帰りの馬車を逃した。
「私の手違いですから、宿代は私が」
セラは二人へ銀貨を渡した。
「先生、今月これで三組目です」
ミナが小声で言う。
「待たせたのはこちらでしょう」
「でも、先生のお給金が」
「私は薬房の二階で寝られるもの」
セラは冗談めかして笑い、親子を見送った。責任を取ろうとしているだけで、誰かに強制された様子はない。人のよさが顔に出ている。
僕には、少し見覚えのある払い方だった。
「宿泊費は、依頼の費用に含まれますか」
僕が尋ねると、セラは目を瞬いた。
「皆さんの宿なら屋根裏を用意します。でも、患者さんの分は私が」
「それを続けると、薬房の運営が苦しくなりませんか」
「薬が早く渡せるようになれば、必要なくなります」
間違ってはいない。ただ、改善が終わるまでの間にも、患者は来る。
長椅子の端には、薬を待つ間に編み物を始めた女性がいた。隣の老人は昼寝をし、子どもは床の木目を数えている。誰も怒ってはいないが、待つことを最初から予定に入れて来ている。
「皆さん、いつもこのくらい待つんですか」
女性は笑った。
「薬が出れば早い方さ。見つからない日は、村の宿で一晩だね」
「薬がないことも?」
「あとから棚にあったと分かることが多いよ」
薬房への信頼は失われていない。セラが必ず何とかするからだ。その優しさで支えているうちに、待ち時間が普通になっていた。
僕は、患者が受付へ来た時刻と薬を受け取った時刻だけ、紙へ書き始めた。改善案の前に、今どのくらい待っているかを知るためだった。
棚の奥で、手伝いが一つの瓶を見つけた。
「赤い咳止め、ありました!」
「冬息でしょう?」
「いいえ、こっちは本当に『赤い咳止め』と書いてあります」
同じ薬が、違う名前で別の棚から出てきた。
セラは瓶を見比べ、ため息をついた。
「薬はあるんです。たぶん、必要な分より多いくらい」
長椅子では、次の患者がまだ自分の薬を待っていた。




