↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
29/150

第29話 空の小箱

木箱は、測定具を入れるには短かった。


持ち上げても軽く、振っても音がしない。リゼが「勝手に開けないで」と言う前に、僕は蓋の留め具を確かめた。宛名には『灯り木のシュウへ』とある。


「僕宛てです」


「なら開けていい」


蓋を開く。


中は空だった。


底に、折った紙が一枚だけ入っている。


『まだ直っていない。直ったら返す。ガント』


短い文だった。


「昨日、測定具は返してもらいましたよね」


「水晶はね」


リゼが箱の内側を指した。先端を支える溝はできているが、その周りにもう一つ、小さな四角い窪みがある。


「温度を先に測る石を入れる場所よ。まだ、その石がない」


親方は、ひびを補強しただけで修理を終わりにしなかった。次に同じ傷を作らないための道具まで揃えて、初めて返したことにするつもりらしい。


「取りに行きますか」


社長が尋ねた。


赤炉工房まで荷車で半日。温度石なら灯り木にも予備があり、急げば今日中に渡せる。僕は立ち上がりかけた。


そこで、グレンの言葉を思い出す。


貸した道具の数だけ覚えておけ。返す日を決める。遅れたら聞く。


ガント親方は、直ったら返すと書いた。いつかは書かれていない。


「一つ、貸したままです」


僕は紙の裏へ書いた。


『温度石を含めて直す予定日を教えてください。急ぎません。次の点検日までにあれば十分です』


書いたあとで、「急ぎません」を消そうか迷った。相手が忙しければ、また後回しになるかもしれない。けれど、本当に必要なのは三週間後だ。早く返してほしいという僕の不安と、仕事上の期限は別だった。


代わりに一文を足した。


『一週間後までに、予定日だけ返事をください』


修理そのものを急がせず、いつになるかは先に知らせてもらう。これなら僕も待てる。


「いいんじゃない」


リゼが紙を読んで言った。


「厳しくありませんか」


「三週間ある仕事の予定を、一週間以内に教えてほしい。普通よ」


「普通の基準がまだ分からなくて」


「分からないなら、聞けばいい。勝手に一番安い条件へしないこと」


彼女は紙の端へ、自分の印も押した。僕一人の要求ではなく、測定具を使う技術者として必要な期限だと示してくれた。


次の点検日は三週間後だ。社長が町へ行く荷運び人へ返事を託してくれた。


「自分で行かなくていいの?」


リゼが聞く。


「待ってみます」


「忘れたら?」


「ここに書きました」


僕は会社の予定板へ、小さな木札を一枚掛けた。赤炉工房、測定箱、三週間後。白でも赤でもない、借り物を示す黄色い糸を結ぶ。


これで、僕が今すぐ覚え続けなくてもよい。


空の箱は持ち帰り、小屋の机へ置いた。中身がないことを不安に感じると思ったが、約束の場所があると、空白は待つための余地に見えた。


昼を過ぎても、僕は二度、箱の蓋を開けた。当然、中は空のままだった。


三度目に手を伸ばしたところで、ルカが尋ねた。


「何か生まれるんですか」


「生まれません」


「じゃあ、どうして見るの?」


「僕も分かりません」


少年は箱の横へ、温泉でもらった小石を一つ置いた。湯に含まれる光が残り、暗くすると青く光る石だ。


「返ってくるまで、これを入れておけば空じゃないよ」


「ルカさんの物でしょう」


「貸します。僕が帰るまで」


早速、借り物が一つ増えた。僕は木札へ『ルカ、光る石、明日の朝』と書く。ルカは面白がって、自分で黄色い糸を結んだ。


夕食前、石を返そうとすると、「まだ朝じゃない」と受け取ってくれない。貸した人が約束を守らせてくれるのも、不思議な安心があった。


その夜、ルカは会社の台所で夕飯を手伝った。薬草入りのスープをよそいながら、僕へ何度も頭を下げる。


「昨日は、ありがとうございました。宿代も払わないで済みました」


「僕は何もしていません。部屋を貸したのは社長です」


「でも、最初に話を聞いてくれました」


何もしなかったつもりでも、少年にとっては違うらしい。助けることと、全部を自分で負担することも、同じではないのだろう。


「僕も、薬を届けるとセラさんにお菓子をもらいます」


ルカが続けた。


「配達のお金とは別に?」


「うん。仕事のお金は家に入れる。お菓子は僕が食べる。混ぜると、お母さんが帳面で困るから」


十歳の少年の方が、報酬と贈り物をきれいに分けていた。


「教えてもらってばかりですね」


「じゃあ、今度はシュウさんが僕に教えて。色の札、セラさんの薬房でも使える?」


「現場を見てから考えます」


以前なら「使えます」と先に答えたかもしれない。赤炉工房で、使う人と物を見ずに作った自動板を思い出した。


ルカは少し残念そうにしたが、「じゃあ見に来て」と笑った。


「薬房では、いつも子どもが配達するんですか」


「僕だけです。村と町の道を知ってるから。でも、セラさんは一人で行くなって言います。今回は帰りの御者さんが急に別の荷物を運ぶことになって」


「明日は誰と帰ります?」


「薬房から迎えが来ます。朝の鐘に合わせるって」


予定板へ、迎えの札を追加した。ルカ自身に絵を描いてもらうと、薬瓶の横に大きな車輪が付いた。


翌朝、朝の鐘が鳴った。


僕は小屋の前で待った。予定の時刻を過ぎても、道は静かだった。前なら、すぐ馬車を探しに町へ出たかもしれない。


「鐘が鳴ってから来るって意味です」


ルカが笑う。


しばらく待つと、森の道から一台の幌馬車が現れた。御者台には若い女性が座り、隣に薬草の束を積んでいる。


ルカは手を振った。


「ミナ姉ちゃん!」


馬車は僕たちの前で止まった。薬師見習いだというミナは、深く頭を下げたあと、僕へ一通の手紙を差し出した。


ルカは箱から借りた光る石を取り出し、僕の手へ返した。


「一個、返しました」


「確かに受け取りました。助かりました」


黄色い糸の札を外す。昨日グレンがしたように礼を言うと、ルカは誇らしげに胸を張った。


「セラ先生からです。ルカを助けてくださった方に、薬房まで来てほしいと」


手紙には報酬も期限も書かれていた。


ただし、報酬の欄には『薬草茶、好きなだけ』とあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。