第28話 貸した数だけ
百まで数える間に、桶は二度、湯船の縁へぶつかった。
僕は三十あたりで向きを直したくなったが、老人に手で止められた。桶は自分で波に戻り、七十を過ぎるころには、最初と反対側まで流れていた。
「何もしていません」
「そうだね」
「それで、何が分かるんですか」
「君が何もしなくても、桶は動く」
老人は楽しそうに笑った。
湯から上がると、彼は工具袋を肩へ掛けた。袋の革は擦れているが、留め具だけは赤炉工房の新品に見える。
「工房の方ですか」
「昔はな。今は、あちこちで壊れかけた回路を眺めている。直すこともあるし、茶だけ飲んで帰ることもある」
名前はグレンといった。灯り木の社長も顔を知っていて、遠い地域の魔法回路を長く保守していた人だと教えてくれた。
「若いころは、私も何でも持っていったよ」
グレンは工具袋を叩いた。
「予備の石、針、線、留め具。困った村へ行けば、帰りには袋が空になる。使っていいと言い、返さなくていいと言い、次の村で自分の道具がなくて困った」
「それで、貸さなくなったんですか」
「逆だ。貸した物を板へ掛けた」
工具袋の内側には、細い革紐が縫い付けられていた。小さな骨札が五枚通してあり、一枚ごとに工具の絵がある。道具を貸すと、その札だけを外して相手の名前を書く。戻れば紐へ戻す。
「帳面ではないんですね」
「帳面を開くほど立派な貸し借りは少ない。一本、二本を忘れない方が大事だ」
今は二枚の札が外れていた。一つは北の村へ貸した導線巻き、もう一つはリゼが手にしている検査針だ。
「北の村の人が返せなかったら?」
「冬が明けたら、茶を飲みに行く。壊れていたら、代わりに何を返せるか聞く。修理を覚えた人が一人増えているかもしれない」
最初から損を許しているのではない。返してほしいものを明らかにしたうえで、返し方には余地を残している。僕が目指したい善良さは、こういう形かもしれなかった。
休憩所で、皆で冷たい果実水を飲んだ。ルカは温泉まんじゅうを両手に持ち、どちらから食べるか真剣に悩んでいる。リゼは濡れた髪を拭きながら、グレンの工具袋を見た。
「その検査針、古い型ね」
「古いが、私よりは若い」
「貸して。先端の調整が見たい」
グレンはためらわず一本を渡した。リゼは光へかざし、細かな溝を確かめる。
「返ってこなかったら、どうするんですか」
僕が聞くと、老人は肩をすくめた。
「返してほしいと言う」
「相手が困っていたら?」
「いつまで要るか聞く」
「壊れていたら?」
「直せるか一緒に見る」
答えが早い。僕なら、どれも自分が我慢する方向へ考えるところだった。
「貸さない方が簡単では?」
「それでは、誰も助からない。貸して忘れると私が困る。だから数える」
グレンは指を一本立てた。
「貸した道具の数だけ覚えておけ」
「値段ではなく?」
「値段も大事だが、最初から全部取り返せると思うと腹が立つ。まず、今いくつ自分の手を離れているか知る。返す日を決める。遅れたら聞く。相手の事情を聞くのは、そのあとだ」
「返す日を過ぎても、自分から言えない気がします」
「では、貸すときに言い方も決めておくといい。『忘れていませんか』では責めているようで言いにくいなら、『まだ必要ですか』と聞く」
「まだ必要だと言われたら?」
「新しい返す日を決める」
「ずっと必要だと言われたら?」
「売るか、贈るか、返してもらうか、自分で選ぶ。相手が困っていることは、君が選ばなくてよい理由にはならない」
グレンは僕へ、四つの言葉を教えた。
貸す。待つ。返してもらう。贈る。
見た目は同じでも、持ち主の意思が違う。僕はその境界を曖昧にして、いつの間にか贈ったことにする癖があった。
彼はもう一本、検査針を僕へ差し出した。
「貸す。夕方までだ」
「何に使えば?」
「持っている練習」
僕は受け取り、紙へ『グレンさんの検査針、一、夕方』と書いた。用途のない貸し借りだが、返す約束だけは明確だった。
リゼが横から覗く。
「赤炉工房の測定具は?」
「一つ。修理結果待ちです」
「麦穂村へ渡した銀貨は?」
「あれは貸していません。払いました」
「ルカの宿代は?」
「会社の客室なので、僕は出していません」
数えてみると、思っていたより少なかった。気持ちの中では、困っている人の全部を自分が抱えたようになっていたが、事実を分ければ違う。
リゼは自分のノートに、赤炉工房の測定具を一行書いた。
「これは灯り木が貸している物。あなた個人の貸し物ではない」
「でも、僕が持ち出しました」
「管理を任されたのと、所有しているのは別」
社長も頷く。
「会社の物で起きたことを、個人の財布で埋めないでください。それでは、会社が何を改善すべきか分からなくなります」
僕が黙って払えば、道具が傷つきやすい運び方も、契約の抜けも、表に出ない。人を助けるつもりで、組織が学ぶ機会を消すこともあるのだ。
「隠すつもりはありませんでした」
「善意で隠れるものが一番見つけにくいのよ」
リゼの言葉を、僕は忘れないよう心の中で繰り返した。
「助けたことと、貸したことと、払ったことを混ぜない方がいいんですね」
僕が言うと、グレンは果実水を飲み干した。
「混ぜてもいいが、混ぜた鍋から銀貨だけ取り出すのは難しいよ」
夕方、約束どおり検査針を返した。
「返してくれて助かった」
老人は礼を言った。返すのが当然だと思っていた僕は、少し戸惑う。
「貸してくれて、ありがとうございました」
「それで一件、終わりだ」
彼は工具袋を閉じ、立ち上がった。
「もう行くんですか」
「湯へ入りに来ただけだからね」
僕の事情を名前以外ほとんど聞かず、グレンは温泉の坂を下りていった。こちらから追いかけて相談したくなるような人なのに、次に会う約束も残さない。
脱衣所へ戻ると、僕の籠の下に小さな木箱が置かれていた。
蓋には、赤炉工房の炎の印が焼き付けてある。




