第27話 何もしない担当
「一晩だけ、宿代を貸してもらえませんか」
ルカと名乗った少年は、薬包を落とさないよう両腕で抱えていた。
僕は財布へ手を伸ばした。
「待って」
リゼが手首をつかむ。
「まず、何を確認するんだっけ」
契約の練習をしたばかりだった。困りごと、期限、負担、報酬。ただ、目の前に眠そうな子どもがいる状況で報酬を聞くのは、さすがに違うと思う。
「薬は、どこへ届けるものですか」
「灯り木さんへです。バルドさんが頼んだ、傷薬と熱冷ましです」
扉を開けた社長が荷札を確認した。注文したのは確かで、薬代には配達料も含まれている。ただし、帰りの馬車賃は薬房がルカへ渡す約束だった。
「なら、今夜は会社の客室を使ってください」
社長が言う。
二階に小さな予備室があり、毛布もある。宿代は要らない。僕が自分の銀貨を出す前に、ルカの寝る場所は決まった。
「明日の朝、薬師の村へ向かう荷車を探します」
「僕が送りますか」
「遠野さんは荷車を持っていません」
「借りれば」
「馬を扱えません」
社長に一つずつ事実を置かれ、僕は口を閉じた。助けたい気持ちだけでは、できないこともある。
ルカは湯とパンをもらい、安心した途端に椅子で眠ってしまった。僕たちは少年を客室へ運び、薬包を事務机へ置く。
翌朝、村へ戻る定期便は一日休みだと分かった。次の便は明日の朝。ルカは今日一日、灯り木で待つことになった。
「ちょうどいい。皆で温泉へ行きましょう」
バルド社長が突然言った。
赤炉工房の仕事が終わったら、一日休む約束だったらしい。僕は聞いていない。
「遠野さんに言うと、別の依頼を入れそうだったので」
「入れませんよ」
リゼが僕を見る。
「たぶん、入れません」
ルカも連れて、町外れの共同温泉へ向かった。月灯苔の森から流れる湯で、夜には淡く光るという。昼の浴場は白い湯気に包まれ、木の香りがした。
会社から温泉までの道を、僕たちは仕事の話をせずに歩いた。
正確には、僕が三度、話しかけようとして止められた。工房へ返す貸出票のこと。明日届く魔石の検品のこと。ルカが運んだ薬の棚をどこへ置くか。
「今日は決めない日です」
社長が穏やかに言った。
「決めなくても、明日困りませんか」
「貸出票は明後日でもいい。魔石は届いてから見ればいい。薬棚は帰ってから五分で決められます」
「五分で済むなら今でも」
「今の五分を全部拾うと、休みがなくなるんです」
社長は道沿いの屋台で焼き栗を買った。ルカへ一袋、リゼへ一袋、僕へも一袋。会社の経費ではなく自分の財布から出し、帳面にも書かない。
「これは何の費用ですか」
「休日の無駄遣いです」
仕事の支出なら理由が要るが、暮らしには理由のいらない銀貨もあるらしい。僕は熱い栗を一つ食べた。甘さを確かめるだけで、予定表には何も増えなかった。
温泉の入口では、男湯と女湯のほかに小さな家族湯があった。ルカは一人でも平気だと言ったが、社長が男湯へ連れていく。僕に世話を集中させない、自然な役割分担だった。
湯船へ入ると、体が思っていた以上に重かったことに気づいた。肩が沈み、足から力が抜ける。
何もしなくてよい。
そう分かっているのに、落ち着かなかった。
湯気の向こうで、社長とルカが湯の温度当てをしている。ルカは熱い方から三番目、社長は二番目だと言い、浴場番へ聞きに行って二人とも外れた。正解は一番ぬるく感じる端の湯だった。月灯苔の光が強いほど熱く見えるだけらしい。
「シュウさんも当てて」
「測っていいですか」
「当てる遊びだよ」
指を入れただけで答えると、僕も外れた。仕事なら測定具を使えばよいが、遊びは正解しなくても困らない。三人で外れたことの方が、なぜか楽しかった。
それでも静かになると、頭はまた仕事へ戻る。休むのが苦手というより、役に立っていない時間を怖がっているのかもしれない。
壁の札が少し曲がっている。桶の置き場所が二つあり、戻す人によってばらばらだ。洗い場の椅子は、混む時間なら通路を狭くしそうだった。
僕はつい、頭の中で並べ替え始める。
「数えてるね」
隣から声がした。
白い髭を短く整えた老人が、肩まで湯へ浸かっていた。細い体だが姿勢がよく、湯船の縁には古い工具袋が置かれている。
「何をですか」
「桶が七つ。椅子が五つ。曲がった札が一つ。働く人は、休む場所でも足りないものを数える」
言い当てられ、返事に困った。
「直した方が使いやすいかと思って」
「今、誰か困ってるかい」
見回すと、昼の浴場には僕と老人しかいない。桶も椅子も足りていた。
「今は、困っていません」
「なら、困ったときに考えればいい」
老人は目を閉じた。
僕も真似をしたが、三十秒ほどで目を開けた。湯の流れる音しかない。何もしない時間は、仕事が見つからない時間より難しかった。
「休んでいる間に、何か起きたらと思いませんか」
「起きるだろうね」
「それなら」
「起きたとき、休んだ人が動けばいい。全員がずっと見張っていたら、起きたときには疲れてる」
老人は、湯の上へ片手を出した。
「仕事には担当がある。休むのも担当のうちだよ」
聞き覚えのない考え方だった。
「休む担当が失敗したら、どうなりますか」
「眠くなる。機嫌が悪くなる。人の話を半分しか聞けなくなる」
「それは、休まなかったときでは?」
「そう。だから今日はもう半分、失敗しかけてる」
老人の言い方は冗談のようだったが、僕は昨日、フィンの話を聞きながら何度か欠伸を隠したことを思い出した。疲れても動けなくなるほどではない。それでも、考える速さや、人へ向ける余裕は少しずつ減る。
ほんわかした暮らしを守るために、倒れる前まで働く必要はない。
「誰の担当ですか」
「今日の君の担当だ」
老人はそう言って、僕の前へ空の桶を一つ浮かべた。
「まず百まで、これが流れるのを見ていなさい」
桶は湯の波に押され、ゆっくり右へ進んだ。




