第25話 誰も残らない夕方
赤炉工房へ着いたとき、午後の鐘が鳴った。
以前なら、そこから職人たちが別々の途中品を抱え、日が落ちても炉の順番を待っていた。今日は中央の板に白札が二枚だけあり、『完了』には朝から七枚並んでいる。
「遅かったな」
ガント親方が言った。
「午後に来る約束でした」
「そうだったか」
「板に書いてあります」
僕が端の来客札を指すと、親方は気まずそうに髭を撫でた。人の予定まで頭の中で抱えていた癖は、すぐには消えないらしい。
職人たちは、今日終える二品へ手を集めていた。一つは大きな煮炊き釜、もう一つは農具の留め具百個。留め具は単調な作業だが、十個ずつ束にし、終わった束を板の下へ掛けることで数え直しが減った。
僕は最初の日に数えた途中品を、もう一度棚で確認した。四十三あった山は、十九まで減っている。捨てた物は一つもなく、完成して出荷箱へ移ったものが二十一、部品が揃わず注文主へ確認したものが三つだった。
「減ったのに、新しい注文も受けていますよね」
受付の職人が台帳を見せた。
「七件受けた。だが、板へ上げるのは前の品が終わってからだと説明した」
「客は怒りませんでしたか」
「いつ仕上がるか言ったら、皆それでいいとさ。今までは早くやるとだけ言って、結局遅れていた」
できない約束を善意で引き受けるより、順番と日を伝える方が客も待ちやすい。僕には少し耳の痛い話だった。
納期を過ぎた札も、残り二枚まで減った。ガント親方はその二人の客へ自分で会いに行き、遅れを謝って、新しい日を伝えてきたという。対立は起きず、一人は「日が分かるなら構わない」と笑い、もう一人は予備の農具を貸してくれたらしい。
問題を隠さず早めに話すだけで、争いにならずに済むことも多い。
「誰が考えたんですか」
「フィンだ」
親方に呼ばれた青年は、手を黒くしながら出てきた。
「百個を一山にすると、途中で呼ばれたときに分からなくなるので。十個なら、僕でも見れば数えられます」
「いい考えですね」
「シュウさんの紙を真似しただけです」
「真似して使いやすくしたなら、もうフィンさんの仕組みです」
彼は耳を赤くした。
さらに、フィンは午後の検査当番を任されていた。以前は検査担当が来るまで待つしかなかったが、傷、寸法、がたつきの三つなら、見習いでも確認できる。特殊な魔法刻印だけ、熟練者へ回すことにした。
「僕が合格を出していいのか、まだ怖いです」
「怖いなら、最初の十個だけ一緒に見よう」
ガント親方が隣へ座った。
親方は一つずつ答えを教えず、フィンに判断させた。迷った品だけ二人で比べる。十個のうち九個は同じ判断で、一個だけ留め具の角を磨き直した。
「次から一人で見ろ」
親方は検査の見本として、合格品と磨き直し品を一つずつ棚へ残した。言葉だけでは分かりにくい角の丸みも、触り比べればフィンに分かる。
「これより尖っていたら戻す。迷ったら、この二つへ当てろ」
「親方がいないときは?」
「迷い札を置け。翌朝見る」
すべてを一人で判断させず、止めてもよい場所を作る。任せることと放り出すことは違う。ガント親方は口数こそ少ないが、その境界を自分なりに考えていた。
「はい」
短いやり取りだったが、フィンの返事は以前より明るかった。
日が傾く前に、二つの白札が完了欄へ移った。
炉番が火を弱める。職人たちは道具を決めた場所へ戻し、床の金属くずを掃いた。誰も次の品へ手を出さない。
「明日の三つは、もう選んである」
親方が『次』の欄を示した。
「なら、今日は終わりですね」
僕が言うと、職人たちは一瞬、動かなかった。明るいうちに帰ってよいのか、まだ体が信じていないようだった。
最初に前掛けを外したのはオズ老人だ。
「俺はもう働いておらん。帰るぞ」
皆が笑い、それを合図に一人ずつ扉へ向かった。フィンは外で待っていた妹と手をつなぎ、夕市の方へ歩いていく。炉の音が止まった工房は、驚くほど静かだった。
ガント親方が事務机から小さな袋を持ってきた。
「納品代はまだ入っていない。今日は払えん」
「聞いています」
「だが、これを預かったままにはできん」
机へ置かれたのは、ひびの入った測定具だった。水晶の先端には、薄い金属の輪が巻かれている。ひびが広がらないよう、ガント親方が自分で補強したらしい。
リゼが魔力を通し、数値を読む。
彼女は三回、別の基準石を測った。ひびが入る前に残した数値と並べ、一つずつ差を確かめる。
「一回読めただけでは、直ったとは言えないの?」
フィンが尋ねた。
「同じものを測って、同じ答えが出るかを見るの。たまたま合うこともあるから」
「三回なら絶対?」
「絶対ではない。でも、一回より信用できる」
初心者にも分かる説明だった。フィンは検査札の裏へ、『迷ったら三つ比べる』と書いた。測定具の確認方法が、彼の仕事にも伝わっていく。
「精度は落ちていない。それどころか、熱の逃げ方が安定してる」
「直ったんですか」
「完全ではない。でも、少なくとも前より丈夫よ」
親方は僕へ差し出さず、貸出票と一緒にリゼへ渡した。僕がまた置いていくと言わないようにだろう。
「修理代は?」
「いらん。壊した場所で直した。それで勘定は終わりだ」
お金はまだ受け取れなかったが、道具は使える形で戻った。
扉の外では、職人たちがまだ誰も帰らず、僕たちを待っていた。




