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第24話 後から増やさない約束

バルド社長は、僕たちの話を最後まで聞いた。


ひびの入った測定具。工房へ置いてきたこと。修理できなければ、誰がいくら負担するか決まっていないこと。


「まず、遠野さんが個人で弁償する必要はありません」


社長ははっきり言った。


「通常の診断作業中に起きた損耗です。貸し出した灯り木と、作業場所を提供した赤炉工房で負担を相談します」


胸の奥が緩んだ。自分で払うつもりだったのに、払わなくてよいと分かると、安心する。なら最初から、払いたくなかったのだと思う。


「ただし」と社長が続けた。「契約に、道具の破損時の扱いがありませんでした。私の落ち度です」


「僕も確認しませんでした」


「遠野さんは、この国の契約に慣れていません。説明するのは雇う側の仕事です」


社長は新しい紙を広げた。


交通、宿、食事、作業報酬、延長条件、貸与品、事故、追加作業。麦穂村と赤炉工房で曖昧だったことを、一つずつ項目にする。


「全部を最初から決められない場合は、どうしますか」


「決められないことを決めておきます」


社長は『未定』という欄を作った。未定の横には、いつ、誰が、何を見て決めるかを書く。


たとえば報酬額が売上後でなければ分からないなら、売上の何割か、確認日はいつか、帳簿を誰が見るかを決める。道具の修理費が見積もれないなら、修理人の判断が出るまで請求しないと決める。


「分からないことを空白にしないんですね」


「空白は、人によって好きな言葉を入れられますから」


僕は赤炉工房の最初の依頼札を思い出した。報酬欄の空白へ、僕は善意を入れ、親方は支払いたい気持ちを入れ、リゼは危険を見た。同じ紙なのに、三人とも違う契約を読んでいたのだ。


未定と書けば、少なくとも分かっていないことだけは共有できる。


「増えすぎませんか」


僕が言うと、リゼに睨まれた。


「読むのが大変なら、最初の一枚に要点だけ書きます」


社長は説明を続けた。大切なのは長い契約書ではなく、仕事を始める前に、誰が何を出すかを同じ言葉で確かめることらしい。


「それと、途中で必要になった費用を、相手へ黙って後から請求することは禁止にします」


「それは工房に不利では?」


「遠野さんが勝手に払うことも、後から工房へ驚く額を求めることも、同じくらい避けたいんです」


僕は少し考えた。


測定具のひびを見た瞬間、損をした人を一人に決めようとしていた。親方でなければ僕、というように。実際には、作業のために起きたことなら、関係者で状況を見て決めればよい。


負担を分けることは、責任から逃げることではない。仕事を一緒にしている証拠でもあるのかもしれない。


「赤炉工房へ、修理結果が出るまで請求しないと伝えてください」


僕が言うと、社長が頷いた。


「それから、遠野さんの報酬は契約どおり、納品代の一割。道具代とは分けます」


「工房にお金が残らなくなりませんか」


「また始まった」


リゼが額を押さえた。


「報酬を払っても利益が残る額を、先に計算しました。だから上限も決めたんです」


彼女が数字を書いた紙を見せる。売上、材料代、職人の給金、僕の報酬。簡単な足し算と引き算だが、全部を並べると、払えることが分かった。


「報酬を受け取ると、相手が困る気がしていました」


「無料で働かれると、次も同じ仕事を頼めないのよ」


「次も?」


「仕組みは一度作って終わりじゃないでしょう。使って直すなら、また来てもらうかもしれない」


保守運用と同じだった。最初だけ善意で作り、誰も維持費を持たなければ、仕組みは続かない。


社長は僕へ、短い練習をさせた。


「私が困っている工房主です。遠野さん、今夜から三日、ただで助けてください」


「分かりました」


「終わりです。今のは零点です」


リゼが机へ突っ伏した。


「もう一度。頼まれたら、まず三つ確認してください。何に困っているか、いつまでか、こちらが何を負担するか」


社長が同じ頼み方をする。


「何に困っていますか」


「炉が動きません」


「いつまでに?」


「今夜です」


「……交通費は出ますか」


「報酬を聞きなさい」


「交通費も大事です」


二人が同時にため息をついた。それでも二回目は、すぐ承諾しなかった。社長は丸を一つ付けてくれた。


「断ることだけが交渉ではありません。助けられる形に整えることも交渉です」


その説明なら、僕にも少し受け入れやすかった。相手を突き放すためではなく、途中で互いに困らないために聞く。


社長は新しい契約書の最後に、一行だけ太い字で足した。


『契約にない負担が生じたときは、作業を止めて三者で決める』


「次は、遠野さん自身に条件を決めてもらいます」


「僕がですか」


「はい。私やリゼさんが代わりに守り続けることはできます。でも、それでは遠野さんの自由時間を、遠野さん自身が選べない」


社長は柔らかく笑った。


「次に頼まれたとき、まず何を聞くか。今から考えておいてください」


僕は新しい契約書の余白へ、小さく三つ書いた。


困りごと。期限。負担。


その下に、報酬、と追加する。最後に書いたところをリゼに見られたが、消さなかったので許されたらしい。


翌朝、赤炉工房から一通の知らせが来た。


昨日の九品がすべて納品され、さらに職人が一人も夜まで残らなかったという。

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