第16話 完成直前の山
翌朝、赤炉工房から返事が届いた。
交通費と宿は工房が負担する。作業報酬は、滞っている注文品が納品できた後に相談したい。
報酬欄は空白ではなくなったが、金額はまだない。
「相談、ですか」
僕が読むと、バルド社長は申し訳なさそうに頷いた。
「ガント親方とは古い付き合いです。腕のよい工房ですが、今は納品できず金が入らない。先に金額を決めても払えないそうで」
「断ってもいいのよ」
リゼが店の入口から言った。
昨日、仕事を受けるとは言っていなかったはずだが、すでに旅支度をしている。灯り木から魔法炉の診断報酬を出すことで、社長と正式に一件だけ契約したらしい。
「宿と交通費が出るなら、麦穂村よりは条件がよいです」
「比較の基準がおかしい」
「納品できた後に払う意思はあるんですよね」
社長は依頼札の裏を見せた。工房主ガントの印と、売上が入った時点で再協議するという一文がある。
僕は期限も確認した。まず三日間だけ現場を見る。続けるなら、四日目の朝にもう一度条件を決める。麦穂村では終わるまで働いてしまったので、区切りを置いた。
「少しは学んだのね」
リゼが言う。
「少しだけです」
そう答えたものの、胸を張れるほどではなかった。
三日という区切りを作れたのは、断れるようになったからではない。三日なら無理をしても何とかなる、と考えただけだ。自分でもその違いは分かっている。
僕が契約書を鞄へしまうと、リゼは呆れたように息を吐いた。
「四日目に、相手がものすごく困った顔をしたら?」
「そのとき考えます」
「今、考えなさい」
「困っている顔を見ないと、どのくらい断りにくいか分からないので」
「それを予測するための契約でしょうが」
バルド社長が笑いをこらえるように咳をした。僕も理屈としてはリゼが正しいと思う。ただ、自分が守れる約束だけを書こうとすると、どうしても弱い文章になる。
結局、社長が「延長は三者の合意がある場合に限る」と一文を足してくれた。三者とは、赤炉工房、灯り木魔道具社、そして僕だ。自分が一人分として数えられていることが、少しくすぐったかった。
僕たちは会社の測定具を一式、荷車へ積んだ。炉の熱、魔石の流れ、歯車の摩耗を調べる道具だ。僕には使えないが、リゼと社長には必要になる。
「これは貸出票です」
修理職人が木札を渡した。道具の名前、持ち出す人、返す日が書かれている。麦穂村で白い輪を見て、自分で作ったらしい。
「もう使っているんですね」
「一つの棚だけで試しています」
修理職人は貸出票の端へ、小さな赤い丸を描いた。
「ひび、欠け、焦げがあったら、ここへ印をお願いします。戻ったときに見比べます」
以前なら、道具を借りた人の記憶に頼っていたらしい。返却時に傷が見つかっても、最初からあったのか、誰が付けたのか分からず、皆が気まずくなる。札一枚で責任を追及するのではなく、曖昧な気まずさを減らせる。
「いい仕組みですね」
「遠野さんの真似です」
「僕のより分かりやすいです」
そう言うと、職人は照れたように鼻をこすった。小さく試して、使う人が直す。僕が前の世界で好きだった改善の形が、もうここで育ち始めている。
リゼに言われたことまで守っている。僕がいないところで仕組みが増えるのは嬉しかった。
工房町へ近づくと、月灯苔のランタンが昼でも淡く光った。煙突が何本も空へ伸び、赤や青の煙が薄く流れている。金属を打つ音、石を削る音、炉の低い響きが街全体から聞こえた。
赤炉工房は、その中でも大きな建物だった。
扉を開ける前から熱い。中では十人ほどの職人が動き回り、壁沿いの棚には鍋、留め具、農具、ランタンの枠が積まれていた。
「完成品が多いですね」
僕が言うと、案内に出た若い職人は顔を曇らせた。
「完成していません。あれは取っ手待ち。こっちは刻印待ち。奥の箱は検査待ちです」
見た目はできているのに、最後の一つが終わらず出荷できない品ばかりだった。
工房主のガントは、太い腕を組んで僕たちを待っていた。灰色の髭、煤で黒くなった前掛け。挨拶をすると、低い声で一言だけ返す。
「頼む」
社長が依頼内容を聞いても、「炉は動く」「職人はいる」「だが終わらん」と短い。困っているのは伝わるが、どこから聞けばよいか分からない。
リゼと社長は魔法炉へ向かった。僕は工房の端へ立ち、入ってきた注文がどこを通るか見ようとした。
ところが、注文札を持った職人が三方向へ散り、それぞれ別の棚から途中の品を取り出す。一人が魔法炉の前で待ち、別の一人が取っ手を探し、三人目は完成したように見える鍋をまた分解した。
僕の目では追えなかった。
「まず、何から始めればいいですか」
若い職人へ尋ねると、彼も山積みの品を見回した。
「それが分かれば、こんなことにはなっていません」
青年はそう言ってから、自分の言葉が失礼だったと思ったのか、慌てて頭を下げた。
「すみません。別に、来ても無駄だと言いたいわけでは」
「大丈夫です。僕も同じことを考えていました」
「同じことを?」
「分からないなら、最初から正解を決めない方がいい、ということです。今日は、皆さんの後ろを歩かせてください」
青年は不思議そうに僕を見た。派遣先で最初にすることは、たいてい同じだ。偉そうな改善案を開く前に、現場の人が何を見て、どこで立ち止まり、誰に声をかけるかを眺める。
僕は新品の紙を一枚取り出し、中央へ大きく「分からない」と書いた。その下に、注文、材料、炉、職人、検査、出荷と、今見えた言葉だけを並べる。
リゼが遠くの炉からこちらを見て、何を書いたのかと目で尋ねた。紙を掲げると、彼女は眉を寄せたあと、なぜか少し笑った。
工房には、完成直前の品ばかりが山になっていた。




