第15話 空白の報酬欄
月灯苔が工房の方角へ反応した理由は、翌朝になって分かった。
工房町では魔法炉をいくつも使うため、空気中へ微かな火の魔力が流れている。月灯苔は夜露だけでなく、遠くの魔力にも向きをそろえる性質があるらしい。
「故障ではないのね」
僕が確認すると、リゼはランタンの蓋を閉じた。
「自然の目印よ。昔の旅人は、工房や街を探すために使ったそうよ」
異世界らしい不思議だが、仕組みが分かると急に生活道具に見える。
僕たちは小屋を出て、同じ荷車で街へ戻った。リゼの馬は村へ預け、苔の籠を守るためだと言う。御者台の後ろへ二人で座ると、肩が触れそうで触れない。
「灯り木へ来る気はありますか」
僕は思い切って尋ねた。
「何の話?」
「社長が、診断だけでも手伝ってほしいと」
「あなたが勧誘するの?」
「人が足りないのは本当なので。僕も魔道具の中身は分かりません」
「三十日の派遣が終わったら?」
「それは……人材斡旋所と相談します」
自分の先も決まっていないのに、人を誘うのは順番が違う。リゼはそれ以上追及せず、籠の苔を整えた。
街へ着くころには日が傾いていた。灯り木魔道具社の看板には、枝から小さな灯りが下がる絵がある。店へ入ると、社長ともう一人の修理職人が、鍋を囲んで待っていた。
「お帰りなさい。今日はシュウさんの小屋祝いです」
「借り物ですけど」
「帰る場所が増えた祝いですよ」
鍋には麦穂村から届いた豆、干し肉、紫の保存果実が入っていた。果実は意外にも肉の臭みを消し、汁へ深い酸味を加えている。
リゼは帰るつもりだったようだが、社長が器を一つ多く用意していた。断る理由を探す間に、僕が椅子を引いた。
「一杯だけ」
彼女は座った。
一杯は二杯になった。リゼは豆の煮込みへ紫果実をもう少し入れる案を出し、修理職人は酸っぱいと反対した。社長が半分の鍋で試そうと言い、二つの味を皆で比べた。
結局、果実を増やした方はパンに合い、元の方はそのまま飲みやすいと分かった。どちらかを正解にせず、食べ方で分ける。仕事の試行と同じなのに、鍋だとずっと気楽だった。
食後には、月灯苔のランタンを店の奥へ置いた。診断待ちの魔道具が積まれた棚を淡く照らし、店の灯り木の印まで青く浮かび上がる。
仕事場の奥は狭く、四人で鍋を囲むと膝が当たりそうになる。けれど、麦穂村で何があったか話し始めると、狭さは気にならなかった。
社長は三色石の作り方をもう覚え、別の冷却具にも使えるか考えていた。修理職人は白い輪を、預かった部品の順番管理に使いたいと言う。リゼは「そのまま真似せず、一つの棚で試して」と僕の言葉を先回りした。
「もう灯り木の人みたいですね」
僕が言うと、彼女は豆を喉へ詰まらせかけた。
「仕事を受けるとは言っていない」
「では、今日の鍋代を請求してください」
「それは夕食でしょう」
「仕事と夕食を分けるのは大事だと、さっき決めました」
リゼは返す言葉を探し、最後には小さく笑った。灯り木で彼女が笑うのを見たのは初めてだった。
社長はその隙に、次の診断依頼だけでも正式な報酬を出すと約束した。リゼは金額を自分で書き、社長が頷く。僕より先に、彼女の契約が一つ整った。
食事の途中、店の扉が叩かれた。配達人が、一通の厚い封書と小さな木箱を持っている。
封書には赤い炉の印。工房町の赤炉工房からだった。
木箱の中には、ひびの入った歯車と、完成直前で止まった注文札が十枚以上入っていた。
社長が依頼状を読み上げる。
「魔法炉は動く。職人もいる。それなのに注文が終わらず、工房中が品物で埋まっている。原因を見てほしい、とのことです」
「修理の依頼ではないんですか」
修理職人が首をかしげた。
「炉の点検も含むそうです。ただ、どこが壊れているか分からないと」
僕は麦穂村の最初の日を思い出した。物があるのに足りない。道具は動くのに仕事が終わらない。
月灯苔のランタンが、棚の上で工房町の方角へ青く光った。
「行けますか、シュウさん」
社長の眉が、また申し訳なさそうに下がる。
「その前に、確認することがあります」
麦穂村から戻る馬車で、リゼに言われた数字を思い出す。期間、担当、宿、交通費、そして報酬。灯り木の依頼札には依頼内容しか書かれていなかった。
社長は視線を泳がせた。
「急ぎだと聞いて、先に伺うと返事をしてしまいまして」
「似た者同士ね」
リゼが僕と社長を順番に見る。
「僕はまだ財布を出していません」
「時間の問題でしょう」
修理職人まで笑った。
僕たちは鍋の横で、今後の依頼札に最低限書いてもらう項目を決めた。何に困っているか、いつまでか、現地で誰が話すか、交通費と宿、報酬。全部を細かく決めるのではなく、空欄なら出発前に確認するための五つだ。
社長は新しい札を一枚書き、工房へ確認の返事を出すと約束した。小さな会社の仕事の入口も、麦穂村の食料と同じように整える必要がある。
僕は依頼状を受け取り、期間、担当、宿、費用の順に目を通した。麦穂村でリゼに言われたことを、少しは覚えているつもりだった。
依頼内容は細かく書かれている。工房主の署名もある。けれど、一番下で手が止まった。
「社長」
「はい」
「報酬欄が空白です」
鍋を囲んでいた全員が、同時に黙った。




