第14話 光る苔と、見ていた人
翌朝になっても、足跡の光は消えていなかった。
夜より薄いが、草の葉に青い粉が付いている。足跡そのものではなく、何かが光る苔を踏んで運んだらしい。
森へ一人で入るのは危ないとマルクさんに止められた。魔獣が多い地域ではないが、道を外れると迷いやすいという。
「昼まで待てば、森に詳しい者を」
村長が言い終える前に、馬の蹄が聞こえた。
リゼットが一人で村へ入ってきた。今日は外套のフードを下ろし、革箱のほかに採取籠を下げている。
「冷却具の様子を見に来ただけよ」
誰も尋ねていないのに、先に説明した。
マルクさんは何も言わず、僕とリゼを交互に見て笑った。彼女はその視線に気づかないふりをして、馬の手綱を村の少年へ渡した。
「森へ行くなら昼前に戻る。月灯苔は日が高くなると光が見えにくいから」
来る前から行くつもりだったように聞こえたが、指摘すると帰りそうなので黙っておいた。
「三色石は青でした」
「あなたの目ではなく、私の診断で確かめる」
穀倉へ案内すると、彼女は冷却具より先に赤線の表を見た。誰かが追記した『芋は籠』を指でなぞり、ほんの少し笑う。
診断はすぐ終わった。魔石も軸も正常で、吸気口の金網にも紐はない。
「それで、その籠は?」
僕が聞くと、彼女は小屋の外に残る青い粉を見た。
「月灯苔。生活用の小さなランタンに使える。昨夜は風が強かったから、森の鹿が胞子を付けてきたんでしょう」
「採りに行くんですか」
「あなたが行きたそうな顔をしているから、案内してあげてもいい」
自分のためではないという形を、最後まで崩さない人だった。
森の入口は小屋から歩いて十分ほどだった。木々の間には朝の霧が残り、濡れた土と葉の匂いがする。リゼは迷いなく進み、僕は枝に外套を引っ掛けながら後を追った。
「足元を見て。苔を全部踏んだら採れない」
「すみません」
「それと、謝る前に枝を避ける」
彼女の歩幅は小さいのに速い。僕は早くも息が上がり、倒木の上で休ませてもらった。
「体力がないのね」
「前の仕事は座っている時間が長かったので」
「それで、椅子が欲しいの?」
「背もたれは大切です」
リゼは呆れながら、水筒を渡してくれた。中身は薄い柑橘水だった。
森の奥に、小さな泉があった。岩の北側だけ、青白い苔が星のように広がっている。昼でも淡く光り、水面へ映っていた。
「きれいですね」
「燃料よ」
そう言いながら、彼女もすぐには採り始めなかった。
しばらく二人で泉を見た。仕事の話をしない沈黙は、最初こそ落ち着かなかったが、鳥の声を聞いているうちに気にならなくなった。
水面には、こちらの空が映っている。太陽も雲も元の世界とよく似ていた。違うのは、岩が青く光り、隣に魔道具師がいることだ。
「帰りたい?」
リゼが泉を見たまま尋ねた。
「帰れるなら、家族には無事だと伝えたいです」
「帰る方法を探しているようには見えない」
「探し方が分からないので。分からないことを一日中考えると、目の前のことまでできなくなります」
僕は、今日できる小屋の掃除や村の点検を先にした。それは諦めなのかもしれないし、暮らすための順番なのかもしれない。
「変な人」
リゼはそう言ったが、笑ってはいなかった。
採るのは、岩を覆う苔の三分の一だけ。根元を残し、平たい木べらで薄く剥がす。リゼは手順を短く教えた。
「全部採れば、今日の灯りは明るい。でも次に来た人の分がなくなる」
「保守ですね」
「何でも仕事へ結びつけるのね」
「分かる形で考えているだけです」
籠が半分ほど埋まると、彼女は僕の紙束を見て尋ねた。
「村では、いつもあれだけ書くの?」
「最初だけです。分かってきたら減らします」
「食事を忘れていた」
「社長が焼き菓子をくれました」
「部品代を払った」
「壊れるよりはよかったので」
「皆が帰った後、一人で袋の数を確かめ直していた」
僕は手を止めた。
「見ていたんですか」
「たまたま通っただけ」
「リゼは、どうしてあの村へ?」
「冷却具を作った工房から診断を回されたの。難しい故障ではないから、若い者で十分だと」
「若い者」
「何か文句がある?」
「いえ。僕は異世界でも派遣ですが、リゼも似た立場なのかと思って」
彼女は少し考えた。腕はあるのに、依頼先では『作った本人ではない人』として見られる。最初に結果を疑われ、間違いがあればすぐ呼ばれる。似ているところはありそうだった。
「だから、壊れてもいない盤を直すよう言われるのが嫌だったの」
「直す場所が違いましたね」
「ええ。でも、それを先に見つけたのはあなた」
素直な言葉は一瞬で終わり、彼女はすぐ苔へ視線を戻した。
彼女は苔を籠へ入れ、視線を逸らした。
村で僕の仕事を一番細かく見ていたのは、図を疑い続けた彼女だったらしい。
帰り道、苔の使い方を教わった。乾かして透明な油へ混ぜると、弱い光を一月ほど保つ。強い照明にはならないが、夜中に水を飲むには十分だ。
小屋で古いランタンを見つけ、二人で苔油を作った。リゼが刻印を直し、僕がガラスを磨く。火を使わない淡い明かりが机を照らした。
「これなら、夜に紙を書いても火事にならないわね」
「夜は休めと言われそうです」
「分かっているなら休みなさい」
ランタンを窓辺へ置くと、光が一度だけ強くなった。
僕たちは顔を見合わせた。
青白い光は一定ではない。小屋の北、街道の先へ向いたときだけ明るくなる。
方角を変えると弱まり、もう一度戻すと強まった。
その先にあるのは、職人たちの集まる工房町だった。
月灯苔のランタンは、工房の方角だけ強く光っていた。




