第134話 二人の署名
「これは、仕事の条件ですか」
僕が聞くと、リゼは少し笑った。
「仕事とは別。でも、王都へ行く前に決めたい」
家族という言葉には、いくつもの形がある。
同じ家に暮らす。生活費を一緒にする。病気の時に判断する。帰る場所を守る。王国の記録へ夫婦として名前を載せる。
僕たちはすでに、いくつかを始めていた。
「僕は、リゼと結婚したいです」
今度は、条件を先に並べなかった。
以前の僕なら、『こんな僕でよければ』と付けたかもしれない。体力がなく、断るのが苦手で、出世も望まず、時々財布を開く。
でも、リゼが一緒に暮らした一月と、その後の季節を、僕よりよく知っている。僕が先に自分の価値を下げて、彼女の選択まで小さくする必要はなかった。
「僕は、リゼと家族になりたいです」
同じ言葉を、今度は迷わず言い直した。
「僕の家族になってください。僕も、リゼの家族になります」
「はい」
リゼの返事も短かった。
その後で、暮らしの条件を話した。
善良さを理由に、家族の時間を勝手に差し出さない。仕事のためにどちらか一人だけが諦めない。相手を守ると言って、相手の選択を決めない。困った時は、察してもらう前に言葉にする。
「全部守れるでしょうか」
「守れない日があったら、戻す」
完璧な約束ではなく、戻る場所を決めた。
大きな式は、王都から戻った後でもできる。今は、仲間だけの食事会と、村の家族記録へ二人の名を載せることにした。
王都へ行くために慌てて結婚するのか、一晩考えた。
翌朝も気持ちは変わらなかった。王都の招待がなくても、次の冬も同じ家にいたい。病気の時も、休日も、仕事がない日も家族でいたい。
リゼも同じだと言った。
「王都は、決める時期を見せただけ。理由ではないわ」
二人とも一度ずつ別々にグレンさんへ話し、互いの返事を知らずに同じことを言ったらしい。彼は、『なら、王都へ行く前でも後でも同じだ』とだけ答えた。
家族記録は出発を早めるための手続きではなく、僕たちの意思を残す日になった。
マルクが記録係を務めた。
『遠野修司、リゼット・アルノー。麦穂村の同じ家に暮らし、互いを家族とする』
記録には、互いの財産を全て一つにするか、個別を残すかの欄もあった。
家と土地は僕の名のまま、増築のリゼ負担分と生活道具は共同。リゼの工房道具と技術契約は彼女。共通の生活箱は二人。どちらかに何かあれば、家の使用権と共同財産は相手へ。
愛情を数字へ変えるためではない。相手の仕事や持ち物を、家族という言葉で勝手に一つへしないためだった。
姓も別のまま。僕は遠野修司、彼女はリゼット・アルノー。家の札には、シュウとリゼの二つを並べた。
マルクは一つずつ読み上げ、二人が別々にうなずいてから印を押した。
この世界では、姓をどちらかへ合わせる必要はない。仕事の名前も今まで通り。家の記録だけ、二人の名を一本の線で結ぶ。
証人は、バルド社長とミナ。リゼ側にはガント、僕側にはグレンさんも来た。
グレンさんは、僕の控え帳を持っていた。
「貸した物と、戻った物は数えたか」
「はい。全部は数え切れません」
「なら、増えたな」
食事会は、増築した家の居間で開いた。
招待は、居間に座れる人数までにした。呼びたい人はもっといたが、大きな式は帰国後の地域祭りで改めて知らせる。
来られない仲間からは、物ではなく一枚ずつ札が届いた。
水路町のネルは丸い陶札へ『流れる』。国境のマルテは三本線札へ『二人で同じ方向』。エメリク校長は学校札へ『分からなければ聞く』。ドーガは大きすぎる木板へ『食料は山ほどある』と書き、レナが鍋敷きへ削り直した。
全てを壁へ飾ると家が仕事場の記念館になるので、生活の棚へ小箱を一つ作った。時々取り出して見る。居間の壁には、二人の木札だけを掛けた。
レナとドムの焼き料理。セラの香草スープ。領地五倉庫の麦パン。国境食堂から届いた三国の包み料理。家庭菜園の冬野菜。
仕事で出会った場所が、一つの食卓へ並んだ。
ドーガは家が狭いと言い、外の相談室へ大きな椅子を持ち込んだ。ネルは水路町の澄んだ水を陶瓶で運び、マルテは三国の祝い札を束ねて送った。エメリク校長とテオたちは、二人分の予定板へ『家族の日』の札を作った。
僕たちは、指輪ではなく、小さな木札を交換した。
木札はガントが切り、テオたちが絵を描き、リゼが水に強い薄い膜を付けた。ミズネズミが好む油は使っていない。
紐は二本。仕事の外套へ付けるのではなく、家の鍵と一緒に持つ。仕事先で夫婦であることを示す印ではなく、帰る場所の印だった。
交換する時、僕はリゼの札を彼女の手へ置いた。落とさないよう握らせるつもりが、そのまま手をつなぐ形になった。
祭りの夜のように、彼女はしばらく放さなかった。
表には二つの茶碗。裏には、青い月札。家族になっても休日を守るという、テオの絵だった。
「夫になった気分は?」
バルド社長に聞かれた。
「まだ、いつもの僕です」
「妻になった気分は?」
「シュウが勝手に払おうとしたら、家計から止められる」
皆が笑った。
夜、客が帰った後、居間には二つの茶碗と二人の木札が残った。
「これからも、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
夫婦になって最初にしたのは、明朝の出発時刻を生活板へ書くことだった。
翌朝、僕とリゼは一緒に王都へ向かった。
出発前、二人で家を一周した。
水の元栓、暖房、窓、薬箱、郵便箱、家庭菜園。担当札は全て置かれている。生活側の扉へは、『帰宅予定、三十日後。変更時は相談室へ通知』と書いた。
夫婦になった翌朝から仕事へ出ることへ、少し迷いもあった。二人きりで過ごす日を王都到着後の三日目へ、青い月札で予約した。移動と会議の間でも、家族の時間を後回しにしない。
「新婚旅行が王都出張ですね」
「仕事の日は仕事。休日だけ新婚旅行にしましょう」
大きな旅を一つの意味にせず、仕事と暮らしを同じ道の上へ並べた。
バルド社長は会社に残り、ルカが最初の十日だけ同行する。家の生活側へ鍵を掛け、相談室の受取札を白へ裏返す。マルクへ外回りの札を渡した。
王都までは二日。道の継ぎ目、領都、中央街道を通る。過去の案件で整えた道と宿が、僕たちを送り出した。
ラウム王国の王都は、高い城壁と何本もの水路に囲まれていた。
最初に案内されたのは、城ではなく王都中央穀倉だった。石造りの巨大な建物が七棟、地下水路と搬送路でつながっている。
担当官が歓迎の言葉を述べる間、僕は床から響く音に気づいた。
ごうん。少し間を置いて、ごうん。
古い業務用機械が、無理をして動く時のような低い音。
聞き覚えのある異音が、王都の穀倉の奥から響いていた。




