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第118話 三つの名前を持つ麦

御者には、相談室の長椅子で眠ってもらった。


翌朝、荷物の封印と馬の体調を確認し、国境交易所まで同行することにした。道案内だけならルカができる。しかし、どの札も使えない理由は、現地を見なければ分からない。


「今日から国境の仕事を受けるんですか」


リゼが生活板の前で尋ねた。


「まだです。今日は荷車を安全な受取先へ渡し、困り方を聞くだけ。調査を頼まれたら、範囲と報酬を改めて決めます」


一台を助けることと、交易所全体を直す契約を混ぜない。


御者の食事代と一泊分は、荷主へ請求できる木札にした。僕が無料で泊める案もあったが、相談室の暖房、馬の餌、朝食には費用がある。御者は礼を言い、荷主名の印を押した。


国境までは、雪道で一日だった。


途中の宿で、香辛料商人のアーシュと再会した。宿場町で青い予約札を使っていた人だ。彼は三国の言葉を少しずつ話せ、同じ交易所へ向かっていた。


「札が増えましたね」


僕が荷車の束を見せると、アーシュは苦笑した。


「前は、一つの国へ着くたび替えました。今は検問が混み、先に全部付けろと言われます。でも、色の意味がぶつかります」


ラウムでは青が通常、赤が注意。東の国では赤が通過済み、青が未確認。南の商国では色を使わず、文字の上下で扱いを示す。


アーシュは、自分の香辛料箱を見せた。


ラウムの青札は『通常保管』。東国の赤紐は『輸出検査済み』。南商国の黒文字は『匂い移り注意』。三つとも必要だが、ラウムの倉庫員は赤紐を見ると危険物だと思い、東国の検問官は青札を見ると未検査へ戻す。


「前は、私が窓口で説明しました。荷車が増え、説明する前に別の列へ動かされます」


札の意味だけでなく、説明する人の数も足りなくなっていた。


アーシュのように三国語を話せる商人は少ない。通訳へ全荷車を集めれば、通訳が休めない。誰でも最低限の受け渡しができ、細かな取引だけ通訳へ回す必要がある。


全部の札を一台へ付けると、見る人によって反対の意味になる。


交易所は、三本の街道が合流する広い谷にあった。


門も三つ。倉庫も三列。窓口も三か国分。荷車は二十台ほど並び、御者たちが何枚もの紙と札を抱えている。


責任者のマルテは、丸い眼鏡をかけた年配の女性だった。


僕たちが事務所へ入ると、帳面の山の前で泣いていた。


「申し訳ありません。悲しいのではありません」


彼女は布で目を拭いた。


「困ると涙が出る体質でして。今は、とても困っています」


マルテの机には、処理待ち、質問待ち、返送待ちの三つの山があった。どれも札の色が混ざり、仕切りを越えて崩れている。


彼女は全ての荷車を自分で確認しようとしていた。担当者が判断できず持ってくるたび、三国の辞書を開き、商会へ手紙を書く。夜まで残り、翌朝また新しい荷車が来る。


「何日、休んでいませんか」


「国境が休まないので、私も」


「責任者がいない夜も、荷車は入れますか」


「夜番が仮受けできます。ただ、私が心配で見に来ます」


水路町のネルと同じだった。真面目な人へ、不明な荷物が全部集まっている。


僕たちは、今夜から『未判定でも安全に置ける仮置き場』を一列作った。危険札がなく、封印があり、期限に余裕がある荷物だけ。マルテが寝ている間に答えを出さなくても、屋根の下で待てる。


卓上には、同じ荷車の書類が三組あった。


ラウムの受入表。東国の輸出表。南商国の中継表。御者が持ってきた封印番号は全て同じなのに、品名が違う。


ラウムでは『冬麦』。


東国では『白穀』。


南商国では『粉用穀物』。


「別の荷物ですか」


「同じ袋です」


マルテは一袋を開けず、外から採取窓だけを見せた。粒の形、色、産地印。どれも同じ麦だ。


三国で呼び方と分類が違う。


ラウムでは食料。東国では種にもなる農産物。南商国では製粉材料。税の区分も、検査する部署も異なる。


交易所の書記は、三枚を三つの荷物として帳面へ登録していた。実物は一台なのに、在庫表では三台分。逆に、ラウムの『薬草』と東国の『香味葉』が同じ品だと気づかず、別々の倉庫へ送ることもある。


「制度を統一できませんか」


マルテが涙を拭きながら聞いた。


三国の法律、税、言葉、商習慣を一つにする。それには国同士の交渉が必要で、交易所だけでは決められない。


「統一する前に、一台を一台として次へ渡せる方法を探しましょう」


僕たちは御者の荷車を、ラウム側の倉庫へ入れた。三国の書類は捨てず、一つの封印番号へ束ねる。


マルテは、無事に着いた荷車を見てまた泣いた。


「この一台だけでなく、全部お願いできますか」


僕はすぐ返事をせず、交易所の地図、荷車数、滞留日数、予算、宿泊場所を聞いた。


調査は十日。対象はこの交易所での受け渡しだけ。各国の法律は変えない。交通と宿は交易所、報酬は一日ごと。続きが必要なら別契約。


現場責任者としてマルテ、三国から書記一人ずつ、御者代表にアーシュ、運送側にルカ、技術側にリゼ。僕は流れの整理、リゼは札と魔道具、ルカは荷車の動線を見る。


毎日夕方に一刻だけ確認し、日中は荷車を止めない。試す荷物は一度に五台まで。食品や薬を使う時は、必ず今までの手順も並行する。


誰が決めるかも契約の付記へ書いた。法律と税は各国の検問官。交易所内の置き場所はマルテ。共通札の試験は僕たち。越境契約そのものは商人と荷主。


僕が各国の制度まで決める仕事に広がらないよう、最初に境界を置いた。


条件を書いてから、僕たちは依頼を受けた。


最初の荷物一覧を開く。


同じ麦が、三つの国で三種類の品物として登録されていた。

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