第116話 家族が増やした茶碗
二つ目の茶碗は、薄い橙色だった。
僕の茶碗は青。形と大きさは同じで、持ち手の内側に小さな印がある。青には丸、橙には三角。
「誰かが、家へ入りましたか」
外扉と玄関の鍵を見た。壊れていない。雪の上には、僕たち以外の新しい足跡が三組ある。相談室の前から台所の裏口まで続いていた。
「三人ですね」
「この足の大きさは、たぶんフィン。小さいのはミナ」
残りはルカだった。
台所の棚に、折り畳んだ札が隠されていた。
『同居試験開始のお祝い。勝手に入ったことは謝ります。鍵はバルド社長から借りました。茶碗は返品できます』
「社長まで共犯ですね」
リゼは呆れながら、橙の茶碗を両手で包んだ。
札の裏には、三人から一行ずつある。
ミナ。『二人分の食事を忘れないでください』
ルカ。『帰る場所が同じなら、別々の便で帰っても安心です』
フィン。『割れたら同じ型で作れます』
茶碗は高価な物ではなかった。共同学び場の陶器授業で、子どもたちと一緒に作ったらしい。形が少し歪み、卓へ置くと橙のほうがわずかに揺れる。
試す人のテオが底を削ろうとしたが、『少しくらいなら家の印になる』とミナが止めた、と追記がある。
「家族になることを、皆に先に決められた感じはしますか」
僕が尋ねた。
「少し。でも、続けろとは書いていない。返品できるともある」
「返品しますか」
「しない」
リゼは橙の茶碗を自分の前へ置いた。
僕たちは二つへ茶を注いだ。量を同じにしたつもりが、歪んだ橙の茶碗は少し多く入る。リゼが、一口分を僕の青へ移した。
「最初から、ぴったり同じにはならないわね」
「足りなければ移せます」
生活費も家事も、毎日同じ半分にする必要はない。二人で足りる形へ動かせばよい。
翌日、三人とバルド社長を呼んだ。
まず茶碗への礼を言い、次に、僕たちがいない時に生活側の裏口から入らないよう伝えた。鍵を持つ社長も、緊急時以外は相談室まで。贈り物はうれしいが、家の境界は別だった。
「驚かせたかったんだ」
社長の言い訳はドーガと同じだった。
「驚きました。次から玄関へ置いてください」
「分かった」
鍵の管理も見直した。バルド社長が持つのは相談室の予備鍵だけ。生活側の鍵は僕とリゼ。火事や急病など、本当の緊急時は相談室から内側の非常戸を開けられるが、開けると赤い封印紐が切れる。
封印は誰かを疑うためではない。使ったことを皆が知り、後で鍵を戻すためだ。
ミナは、自分たちが善意で境界を越えたことを謝った。
「喜ぶと思って、確認しませんでした」
「喜びました。それと、勝手に入ってほしくないことは両方です」
一つを認めたら、もう一つを我慢する必要はなかった。
怒鳴らなくても、祝いを拒まなくても、嫌だった部分は言えた。
ミナたちは、同居で僕たちが仕事へ来なくなることを心配していなかった。それより、二人が食事を抜かず、夜遅く一人で帰らず、疲れた時に気づく人がいることを喜んでいる。
「家族ができると、自由時間が減ると思っていました」
僕が言うと、ミナは首を傾げた。
「一人で全部する時間も減ります」
食事を作る日が増える一方、作ってもらえる日もある。相手に合わせる予定が増える一方、帰り道を一緒に歩ける。家族は仕事や自由の外にある荷物ではなく、支え合う役割にもなる。
ただし、支えを当然にしないため、生活板には『ありがとう』の札を一つ置いた。家事の回数を借りとして数えず、助かったことだけ言葉にする。
同居試験の最初の週、僕が夕食を二回作り、リゼが三回作った。買った日が二回。掃除札は一度交換した。僕が領主府の報告を居間へ持ち込み、リゼに相談室へ戻されたのが一回。
緑の籠には、『帰った時に暖炉がついていた』『朝食を二人分作ると食材が余らない』『夜道を一人で歩かなくてよい』が入った。
黄色の籠には、『工具の油の匂いが寝室まで来た』『僕の本が土間へ移されていた』『二人とも買い物をした日に牛乳が二本になった』。
油は土間の換気口を使う。本は移す前に聞く。買い物札は玄関へ掛ける。
一月後にまとめて直すつもりだったが、どれも小さく、その日のうちに変えられた。籠には解決済みの印を付け、同じことが繰り返した時だけ話す。
助かった札のほうが多かったが、数で勝敗を決めなかった。一つの大きな困り事が十個の助かったことを超える場合もある。今回は、どれも二人で扱える大きさだった。
大きな問題はなかったが、小さな違いはあった。
僕は朝に窓を開けたい。リゼは寒い日は昼まで閉めたい。寝室ごとに窓を開けることにした。
リゼは夜に工具を磨きたい。音が僕の読書を邪魔するので、土間の扉へ布を張った。
僕は食器をすぐ洗いたい。リゼは茶を飲み終えてからまとめたい。夜の一刻までに洗う、と終わりだけ決めた。
どれも、同居に向かない証拠ではなく、二人で暮らす時の条件だった。
一月後、職人宿の部屋をどうするか話した。
リゼはすぐ解約せず、工房が夜遅くなる時の休憩部屋として小さい部屋へ替える。小屋を主な生活場所にする。
「次の冬も、ここにいたい」
橙の茶碗を持ったまま、リゼが言った。




