第103話 開けないという返事
領主印の手紙を見た瞬間、僕は起き上がった。
王国の領主から、僕個人ではなく灯り木魔道具社宛て。封筒は厚く、中に何枚も資料が入っている。急ぎではないと書かれていても、重要ではある。
「三日以内なら、今夜読んでも同じです」
「今夜読むと、今夜考えるでしょう」
リゼの言う通りだった。
「読むだけにします」
「学校の手紙も、読むだけのつもりで祭りの夜に役割まで考えたわね」
僕は封筒を裏返した。
開けずに置くための場所を、宿の主人へ借りた。受付の鍵箱に入れ、『明朝、朝食後に受け取る』と札を付ける。部屋へ持ち込まなければ、寝る前に少しだけという誘惑もない。
「領主の手紙を預かって、よいのですか」
主人は緊張していた。
「封は開けず、僕たちの部屋番号と受取時刻を記録してください。紛失した場合の連絡先は会社です」
主人と僕が箱の札へ署名した。
手紙を開けないことにも、小さな手順が要った。
僕は会社へ到着だけ知らせる短い札も送った。
『領主印の手紙を受領。緑札を確認。明朝開封する』
急ぎでないと判断したことを、僕一人の胸へ置かないためだ。もし会社側に別の事情があれば、緊急印で返事が来る。夕食の鐘まで待っても返事はなかった。
何も来ないことも、今夜開けなくてよいという確認になった。
夕食は、山菜の煮込みと川魚、焼いた根菜だった。領主の封筒が受付にあると思うと、最初は味がよく分からない。
「今、何を考えていますか」
「領主が会社へ何を頼むのか」
「では、食事へ戻る質問をします。今日一番おいしいのは?」
僕は三つをもう一度食べた。
「根菜です。外が甘く焼けています」
「私は魚。香草が学校の畑と同じ匂い」
次は、森で見つけた木の実の数。温泉の湯が熱かった場所。帰ったら家庭菜園へ植えたい冬野菜。
一つずつ答えるうち、頭の中の封筒が少し小さくなった。
食後、宿の小さな談話室で本を読んだ。僕は異世界の測量史、リゼは新しい魔石の加工法。隣に座っていても、同じ本を読む必要はない。
「一緒に暮らしたら、こういう夜が増えるでしょうか」
僕が聞くと、リゼは本から顔を上げた。
「仕事の紙を食卓へ持ってこなければ」
「条件付きですね」
「大切な条件よ」
僕たちはまだ別々の家で暮らしている。リゼは会社近くの職人宿、僕は麦穂村でもらった小屋。互いの場所へ泊まることはあっても、生活の道具は分かれている。
一緒に住む話を、今すぐ決める必要はなかった。ただ、どんな夜を守りたいかは話せる。
「夕食は、できる方が作る。二人とも無理なら買う」
「休みの日は、一緒に出かける日と別々に過ごす日を作る」
「仕事の相談は、緊急でなければ食後まで」
「夜の二刻目を過ぎたら翌日」
契約書を作るつもりではなく、笑いながら好きな暮らしを並べた。
リゼは、工房用の服を家の中へ持ち込まない場所がほしいと言った。僕は、静かに一人で座れる小さな机がほしい。食器は二人分を基本にし、仲間が来る時だけ共同学び場から借りる。
家事を半分ずつに分けるのではなく、週ごとに誰が何をするか札で選ぶ案も出た。疲れている日は交換できる。交換を頼んだ回数を借りとして数えない。
まだ一緒に住む約束ではない。それでも、相手の暮らしへ自分の希望を置き、違いを聞く時間は心地よかった。
「仕事の相談より、決めることが多いですね」
「全部、決めきらなくていいから楽なのよ」
試して変える前提なら、生活にも完璧な設計書は要らなかった。
夜、部屋は二つ用意されていた。寝る前に、廊下の窓から星を見た。
「手紙を開けなかっただけで、こんなに時間があるんですね」
「今まで、その時間を全部先の心配へ使っていたのよ」
リゼは僕の頬へ短く口づけた。
「おやすみ、シュウ」
「おやすみなさい、リゼ」
胸は温かくなったが、領主の手紙を開けに戻ろうとは思わなかった。
翌朝、朝食を食べ、帰りの馬車の時刻を確認してから、鍵箱の封筒を受け取った。封も署名もそのままだ。
昨夜すぐ開けても、手紙の内容は変わらなかった。変わったのは、読む僕の状態だった。よく眠り、朝食を食べ、帰る時刻も分かっている。大きな依頼でも、今すぐ答えを出さなくてよいと考えられる。
封筒の外側へ、受領時刻と開封時刻を並べて書いた。『遅れ』ではなく、『緑札の期限内』。休んだことを、後ろめたい空白にしないためだった。
リゼ、バルド社長へ見せるための控え、資料を置く机。読む準備をしてから、僕は封蝋を切った。
手紙は、領内五か所の穀倉についての相談だった。
収穫量は平年並みで、盗難も災害もない。各倉庫は毎朝、保管している袋数と重さを領都へ報告している。
問題は、数字だった。
昨日、領内には麦が一万二千袋あった。今朝は一万二千三百袋。出荷はあり、入荷の記録はない。それなのに三百袋増えている。
別の日には、四百袋減り、翌日には二百五十袋戻った。
『食料そのものは目の前にあります。しかし、帳面の中では毎日増えたり減ったりします。誰の数字を信じればよいか、一緒に見ていただけませんか』
封筒の最後に、五つの倉庫の報告表が入っていた。
同じ日の同じ麦が、表を足すたび別の量になっていた。




