第102話 僕がいない日の予定板
温泉へ出発する朝、僕は会社の戸を三度確認した。
一度目は鍵。二度目は予定板。三度目は、明日の連絡札が僕の机へ置かれていないか。
「四度目も見ますか」
リゼが馬車の前で待っていた。
「念のため」
「会社は、シュウが戸を見なくても開くし、見ても休日には開かないわ」
僕は鍵から手を離した。
会社にはバルド社長がいる。ミナは午前に薬房、午後は学校。フィンは赤炉工房で発酵箱の型を確認する。ルカは運送組合の定期便へ乗る。
僕が仕事へ行かなくても、皆の予定は書かれていた。
僕の欄だけは、青い月札と温泉の絵がある。以前は休日の欄を空白にしていた。空白だから、仕事を置いてもよいと思われる。今は『休む予定』が目に見える。
社長の欄には受注、ミナには学校、フィンには工房。誰かの欄へ仕事が集中したら、朝の一分確認で分かる。一人が休むために、別の一人が二倍働く仕組みにはしない。
「僕の代わりに、社長が無理をしていませんか」
「社長の予定札は二つだけ。午後は『昼寝』と自分で書いていたわ」
「それなら安心です」
会社を信じるというより、皆の負担が見える板を信じることができた。
温泉は、麦穂村から南の森を越えた小さな宿にあった。以前、皆で来た場所より奥で、客室は六つだけ。湯は熱すぎず、木の香りがする。
受付で、宿泊札を確認した。
二名、一泊、夕食と朝食付き。追加の貸切湯は夕方の一刻。仕事の伝書札は、緊急の印がある物だけ宿の主人が渡す。
「そこまで決めたのね」
「休日を守る練習なので」
「恋人との旅行という目的も忘れないで」
部屋へ荷物を置いた後、僕たちは森を歩いた。雪の前の木々は赤と黄に変わり、足元には丸い木の実が落ちている。
僕は何度か、今ごろ会社で何をしているか考えた。
一番鐘には、バルド社長が受注札を確認する。二番鐘には、ミナが薬房から学校へ移る。昼便でルカが戻る。もし顧客から質問が来たら、誰が答えるだろう。
「気になりますか」
「はい。僕が断った仕事だけではなく、普通の仕事まで」
「では、帰って何が止まったか見ましょう。今は、止まるかどうかを試している時間」
任せるとは、何も起きないと信じ込むことではない。自分がいない時の結果を後で見て、必要なら仕組みを直すことだ。
昼過ぎ、宿の主人が一枚の札を持ってきた。緊急印はない。表には、『灯り木魔道具社、昼の報告』とある。
開くか迷った。
「緊急でないなら、帰ってからでいいでしょう」
「でも、会社からわざわざ」
裏を見ると、ミナの字で『開封は明日でも可。シュウさんが気にすると思うので送付』とある。
気にする僕のための札なら、見ても仕事を始めない約束で開くことにした。
『午前の依頼二件、社長が受付。薬房の札一件、ミナが回答。工房への確認一件、フィンが回答。判断待ち一件、次の出勤日へ置いた。問題なし、ではなく疑問一件あり。急ぎではない』
疑問一件の内容は、わざと封筒へ入っていなかった。読めば考える僕を、ミナが分かっている。
「ここまで書かずに止めるのも、連絡の技術ですね」
「受け取る人が、今できることまで考えているから」
情報は多ければ親切とは限らない。休日の僕には、『次の出勤まで待てる』と分かれば十分だった。
僕は返事札へ、『受領。次の出勤日に確認』とだけ書いた。解決案も質問も書かない。宿の午後便へ預けると、会社とのやり取りはそこで終わった。
何もなかった、と丸めず、疑問があることも書かれている。それでも今すぐ僕へ答えを求めていない。
「会社が回っています」
「皆が働いているからね」
「僕がいなくても」
「最初から、そういう会社にしたかったでしょう」
少し寂しい気持ちもあった。頼られることを負担に感じながら、頼られないと自分の価値が減ったように感じる。僕の中には、矛盾した二つがある。
リゼは温泉へ向かう籠を持った。
「いなくても回ることと、いらないことは違うわ。帰った時に相談できる人がいるから、判断待ちへ置ける」
僕はその言葉を何度か考えた。
貸切湯では、森の上に薄い雲が流れていた。男女で湯着を着て入れる広い露天風呂で、僕たちは岩を一つ挟んで座った。
湯へ肩まで入ると、仕事の考えが少しずつほどける。僕は体力がないので、長く入りすぎないよう砂時計を持ってきた。リゼが半分で一度水を飲ませる。
「僕を管理していますね」
「恋人分です」
「僕も、何か管理したほうがいいですか」
「私が工房へこもりすぎたら、夕食へ呼んで」
お互いを縛る管理ではなく、生活へ戻す合図を頼み合った。
砂が半分落ちたところで、僕たちは一度湯から上がった。休んでいる時間まで最大限楽しもうとして、のぼせては意味がない。
岩の縁で果実水を分け、森の音を聞いた。遠くで鳥が鳴き、湯口から水が落ちる。僕が会社の話をしない時間が十分続くと、リゼは自分の作りたい小さな魔石灯の話をした。
仕事の納期がない、ただ色の変化を楽しむ灯り。役に立つか聞きかけ、趣味に役割を求めるのをやめた。
「できたら、小屋の寝室へ置きたいです」
「では、いつか作る。期限は決めない」
期限のない約束も、暮らしにはあってよかった。
湯上がりには、冷たい果実水を飲んだ。仕事の札はもう開かず、夕食まで畳の上で本を読んだ。僕が途中で眠り、起きると肩へ毛布が掛かっていた。
日が落ちた頃、宿の主人がもう一通の手紙を持ってきた。
厚い封筒には、ラウム王国の領主印がある。
けれど封蝋の横には、緑の小札で『急ぎではない。三日以内に開封』と明記されていた。




