第101話 その日はできません
バルド社長が持っていた予定板には、次の休日へ青い月札が置かれていた。
僕とリゼが、温泉宿へ行く日だ。祭りの前から予約し、一度も動かさないと決めた休日だった。
その隣に、社長は小さな点検札を置こうとしていた。
「北通りのパン工房から、発酵箱を見てほしいと頼まれた。温度が少し安定しないらしい。朝だけ、移動を入れても一刻で終わると思う」
発酵箱が完全に止まったわけではない。予備の炭箱もあり、パンは焼けている。ただ、冬になる前に点検してほしいという依頼だった。
急ぎではない。
一刻なら、朝に終えてから温泉へ向かえる。出発は少し遅くなるが、宿の夕食には間に合う。僕の頭は、引き受けるための組み方をすぐ考え始めた。
「何時からですか」
そこまで口にして、止まった。
時間を聞けば、できる理由を探し始める。発酵箱の種類、予備の有無、工房までの距離。条件を一つずつ確認して、最後には『それなら大丈夫です』と言う自分が見えた。
リゼは何も言わなかった。
机の上には、学校の子どもたちが作った机がある。引き出しは浅く、仕事の紙を入れすぎると閉まらない。背もたれの砂が、細く落ちていた。
僕は予定板の月札を見た。
「その日は、できません」
声は、自分で思ったより普通だった。
社長は点検札を持ったまま止まった。
僕の胸は速く鳴った。社長が困っている。顧客も待っている。休日の予定は遊びで、発酵箱は仕事だ。理由を説明しないと、わがままだと思われるかもしれない。
「温泉の予約があって、前にも休日を動かして、それに最近は学校も――」
言葉が続きかけた。
グレンさんに教わった、『断った時の姿を一度考える』を思い出した。
僕が断れば、パン工房はどうなるか。予備の炭箱で一週間使える。社長はどうするか。翌週へ移すか、別の人へ頼む。会社が壊れるわけではない。
僕が失う物は、温泉の時間と、リゼとの約束を自分で守れたという感覚だった。
「すみません。理由をたくさん並べなくても、その日はできません」
言い直した。
断る言葉には、『申し訳ありませんが』を付けた。それは相手へ礼を失わないためで、断りを取り消すためではない。僕は机の下で手を握り、次の説明を足さないようにした。
沈黙はほんの数秒だった。それでも僕には、相手の返事を待たず自分から条件を緩めたくなる長さだった。
『朝ではなく前夜なら』『僕一人でなくフィンとなら』『温泉を一日短くすれば』。譲歩案が頭へ浮かぶ。どれも口にしなかった。
社長が考える時間は、社長のものだ。僕が不安だからといって、先回りして断りを崩さなくてよい。
バルド社長は、眉を上げた。
「分かった」
それだけだった。
「怒らないんですか」
「どうして怒るんだ」
「仕事を断ったので」
「休日に仕事を頼んだのは俺だぞ。断られることもある」
社長は青い月札から手を離し、翌週の空いている火札へ点検札を置いた。
「パン工房には、来週の二日目なら行けると返す。待てないなら、赤炉工房の点検担当を紹介する。それでいいか」
「はい。発酵箱はガントさんの工房でも扱えます」
僕は代案を説明しようとし、社長に手で止められた。
「今日は俺が返事をする。シュウは休日札を守るだけでいい」
予定板の書き換えは、一分で終わった。
怒鳴り声も、失望した顔もなかった。仕事を断った結果は、別の日へ札が一枚動いただけだった。
それでも僕の体には、しばらく緊張が残った。断る前に想像した対立が、実際には起きなかったことへ、気持ちが追いついていない。
「本当に、来週で大丈夫でしょうか」
「パン工房へ聞く」
社長はその場で伝書札を書いた。返事は昼前に届いた。
『予備箱で足ります。来週お願いします。休日にすみませんでした』
工房側も、僕がその日しかいないとは考えていなかった。急がせたのは、頼まれた僕自身の頭だった。
「最初から急ぎではないと言いましたよね」
リゼが言う。
「聞いていました。でも、困っていると知ると、僕の中で少しずつ急ぎになります」
「だから、予定板を皆で見るの」
僕の感覚だけで優先度を変えず、顧客と会社と予定を並べる。
午後、バルド社長は会社の依頼書へ、新しい欄を加えた。
『希望日』と『必要期限』。
顧客が早いと助かる日と、遅れると困る最後の日を分ける。今回の希望日は次の休日、必要期限は二週間後だった。
「俺も、希望された日をそのまま期限だと思っていた」
社長は自分の札にも赤い印を付けた。
パン工房にも、新しい欄を見てもらった。店主は希望日を『できれば今週』、必要期限を『初雪の前』と書いた。さらに、予備炭箱で困るのは薪代が少し増えることだと分かった。
それなら来週までの追加薪代を点検料から少し引く案を社長が出した。店主は、休日を潰すよりその方がよいと笑った。
僕が引き受けていれば、見えなかった費用だった。急いで働く以外にも、待つ間の不便を小さくする方法がある。
フィンは翌週の点検へ同行したいと予定札を置いた。発酵箱の型を覚えれば、次から僕だけへ依頼が集まらない。断った仕事が消えたのではなく、学ぶ仕事へ形を変えた。
僕が一度断ったことで、僕だけでなく依頼の受け方も少し変わった。
仕事を終え、机の引き出しを閉めた。紙は一枚もはみ出さない。
予定板には、動かなかった青い月札と、翌週へ移った点検札が並んでいた。
僕が初めて明確に断った後も、会社の予定は普通に続いていた。




