第10話 椅子が遠ざかる
払えないと言われて、驚きはしなかった。
依頼書の報酬欄は最初から空白だった。馬車代も僕が出した。冷却具の部品まで村が用意できるなら、社長はあれほど申し訳なさそうな顔をしなかっただろう。
それでも、実際に金額を聞くと少し黙ってしまった。
銀貨五枚。
街で見た背もたれ付きの椅子は、銀貨八枚だった。馬車代と合わせれば、ほとんど同じになる。
「部品を戻すことはできますか」
僕が聞くと、社長が目を丸くした。
リゼットは冷静に答えた。
「古い軸受けへ戻せば動く。ただし、今度は本当に壊れる可能性が高い。監視石は外せるわ」
村を脅すためではなく、選べる形にするための確認だった。直したものを無料で置いていくか、元へ戻して支払いを待つか。ほかの村から借りる方法もある。
マルクさんは、収穫後に麦で払うと言った。社長は会社の帳簿を思い浮かべているのか、難しい顔をした。灯り木魔道具社にも余裕はない。
「分割は?」
「春からなら、銀貨一枚ずつ」
それでは仕入れ先への支払いが待たない。
僕は財布を取り出した。革袋の中で銀貨が触れ、乾いた音を立てる。
「シュウさん」
社長が止めた。
「これは会社の仕事です。あなたが払うことではありません」
正しい。僕は派遣されているだけで、会社の仕入れを肩代わりする理由はない。異世界で次の給料が確実に出る保証もない。
「でも、会社が払ったら今月の皆さんの給料が減りますよね」
社長は答えなかった。
「村から春に返してもらえれば」
「返らないかもしれない」
リゼットが言った。
「不作になれば、食料を優先する。あなたは強く取り立てられないでしょう」
僕の性格を数日でずいぶん正確に見抜いている。
「そうかもしれません」
「だったら、なぜ出すの」
三色石が青く光る穀倉の中で、村人たちは新しい札を使い始めていた。古い袋が手前へ運ばれ、湿った麦はもう別にされている。部品を戻せば全部が無駄になるわけではない。それでも、壊れると分かっているものを元へ戻すのは気が重かった。
「困る人の顔を、もう知ってしまったからですかね」
自分で言って、ひどく曖昧な理由だと思った。
日本で同じことをした記憶がいくつもあった。後輩が終電を逃しそうなら自分の作業を止めて手伝った。小さな会社の担当者が予算を取れないと聞けば、契約外の手順書を休日に作った。感謝されたこともあれば、次から当然の仕事になったこともある。
損をしたと後から気づき、もうやめようと思う。それでも、目の前で困っている人を見ると、過去の反省は少し遠くなる。
「善人ぶっているわけではありません」
「そんなことは言っていない」
「自分でも、なぜ毎回こうなるのか分からなくて」
リゼットは腕を組み、僕の財布ではなく顔を見た。
「分からないまま払うのが、一番よくないと言っているの」
その言葉は、銀貨より重く残った。
ルカが穀倉から出てきて、青い石が光っていると嬉しそうに報告した。彼はお金の話を知らない。
僕は銀貨五枚を社長へ渡した。
「今回だけです」
言いながら、この言葉はあまり信用できないと思った。
社長はすぐに受け取らず、僕の顔を見た。
「春に村から返ったら、必ずシュウさんへ戻します。それと、馬車代も会社の借りにします」
「馬車代はいいですよ」
「よくありません」
珍しく強い声だった。
結局、部品代は僕が立て替え、会社が借用札を作り、村は春から会社へ麦で返すことになった。三者の印を押したので、完全な贈り物ではない。ただ、いつ戻るか分からない金になった。
借用札には、返済が遅れた場合の罰を書かなかった。代わりに、収穫量が予定より少なければ三者で相談する、とした。社長は甘すぎると言いかけたが、自分も同じ案を考えていたらしい。
「会社は、仕事を続けるために代金をもらいます」
バルド社長はマルクさんへ、ゆっくり説明した。
「ただ、村を潰して回収するためではありません。春にまた話しましょう」
能力がない善人だと思っていた社長が、少しだけ頼もしく見えた。困ると人へ仕事を寄せるが、相手を数字だけで見ないところは、僕がこの会社を嫌いになれない理由だった。
話が終わると、リゼットが僕の手を出すよう言った。
「何ですか」
「貸しなさい」
僕の財布から出た銀貨の数、馬車代、部品代を、自分の小さな帳面へ書きつける。
「そこまでしなくても」
「あなたは忘れるでしょう」
「忘れはしません」
「返してもらわなくても、まあいいかと思うでしょう」
否定できなかった。
「帳面を持つ人が自分では、また都合よく忘れます」
「では、あなたが管理するんですか」
「返済されたか確認するだけ。取り立ては社長の仕事よ」
社長が急に背筋を伸ばした。僕一人の曖昧な親切が、帳面へ載せたことで会社の仕事に変わった。少し恥ずかしく、少し安心した。
僕はリゼットへ、いつか返った銀貨の一枚で食事を奢ると約束した。彼女は「利息としては安い」と言ったが、帳面の余白へ小さく印を付けた。
彼女は帳面を閉じ、僕へ返さず自分の鞄へしまった。
その日の夕方、村の家具職人が穀倉へ来た。新しい棚の木片を持ってきたついでに、僕が街で椅子を見ていた話を社長から聞いたらしい。
「背もたれなら、余り木で付けてやれるぞ」
「椅子自体がまだないんです」
職人は笑ったが、僕も笑うしかなかった。
銀貨を数え直す。
欲しかった椅子は、もう少し先になった。
その横で、リゼットは僕の支払いを記した帳面へ、何かをもう一行だけ書き足していた。




