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「カートン。マリー・カートン」
昼食を終えて、四限目の教室へ移動している途中だった。マリルルカは名前を呼ばれて振りむいた。
「グリンヒル先生……」
「おかえりなさい、カートン。待っていましたよ」
いつも厳しい表情のグリンヒル女史が、目じりのしわを深くして微笑んだ。
ベス・グリンヒルは、中等部で植物学や農学を教えている。マリルルカは女史の熱心な生徒であり、造園倶楽部という課外活動でも師事していた。
師と仰ぐグリンヒル女史の「カートン」という呼びかけに、マリルルカは覚えず胸にこみ上げてくるものを感じる。――帰ってきたのだ、と。
カートン姓は学園名だ。本当の名は、マリルルカ・エヴィン・カラヴェイン。学園内では、愛称の名と入学時に与えられた姓を合わせて、マリー・カートンと呼ばれていた。
フリッヒドルン学園は、出自に関わらず学問を志す生徒は皆平等であると定めている。そのため、校則で生徒の素性を明らかにする行為を禁止しているのだ。学園都市において学園名を名のるのは、その一環である。
入学以来呼ばれてきたからというだけでなく、マリルルカはこの名前に愛着を持っていた。九歳まで母方の祖父母に育てられた彼女は、実父に引き取られるまで母方の姓であるカートンを名のっていたのだ。
それまでカートン以外の名前が自分にあるとはまったく考えていなかったマリルルカは、六年前に得た新しい姓をいまだに慕わしく思えない。あのよそよそしい邸と相まって厭わしいぐらいである。
そのせいか、実家に帰省するよりも学園へ戻ってきた時の方が、よほど安らげるのだった。だから、心の底から帰還を告げられる。
「ただいま、戻りました……」
グリンヒル女史は、マリルルカの心情を汲むかのようにゆっくりうなずいて応えた。
「ちょうど花期に入る時期ね。よかったわ、間に合って」
「はい。私もそれが心配だったんです」
「あのぅ、花期って何のですか」
会話に口をはさんだのは、眼鏡少年カノンだった。四限目は、またしても同じ講義を選択していたのだ。しかも、セーラも双子もザッツもいない。ふたりっきりである。
ただでさえ、昼食前の告白まがいの会話が尾を引いて気詰まりなのだ。というのに、帰還の喜びにまで水を差されたようで、マリルルカは眉をしかめた。
「…………薔薇、よ」
低く静かなる怒りをこめた声に宿る真意は、本人にも師匠にも届かなかった。グリンヒル女史があまりにも簡潔な一言を補う。
「春だからさまざまな花が開花時期だけど、彼女は特に薔薇について学んでいるのですよ。しばらく休学していたから、学園で世話をしている薔薇のことが気になっていたというわけです。……あなた、見ない顔ね」
「あ、はい、三日前に転入してきました」
「ああ、四年に来たカノン・フリクト……。変わった時期にやってきましたね、転入生」
「はあ……まあ。やっとお金が――」
「答えなくてよろしい。まだ不慣れでしょうが、校則を守って会話することに慣れなさい。本来なら罰則ものだけど、今回は見逃しましょう」
ぴしゃりとカノンをやりこめる。グリンヒル女史の本領発揮だ。それでも罰則なしなのだから、女史としては優しい叱責だった。
厳しい眼差しをゆるめたグリンヒル女史は、マリルルカに向きなおる。
「旅の疲れが癒えたら、倶楽部に顔を出すのですよ。あなたが手がけた花は、ちゃんと私たちが世話をしています。それをまた私たちから引き継ぎなさい」
「はい!」
今すぐにでも倶楽部部屋に駆けていきたいと逸る気持ちを抑えながら、マリルルカは返事をした。
突然の帰郷だったので、薔薇のことを頼んでいく余裕もなかったのだ。だが、きちんとグリンヒル女史と倶楽部の生徒たちが手をかけてくれていた。杞憂と思いつつも、あるいは見捨てられ荒れているかもしれないと不安で、昨日は庭園に顔を出せなかったが、今日の放課後にもセーラを誘い倶楽部に出ようと決める。
予鈴が鳴ったので、マリルルカたちはグリンヒル女史と別れ、次の講義室へ急いだ。
四限目の講義は、特別棟の三階の講義室である。
マリルルカは、初めて特別棟に足を踏み入れた。特別棟では、主に魔法学が教授されている。これまで魔法に興味がなかったマリルルカは、必修科目でもなかったので、魔法学を選択したことがなかったのだ。
今回、異例の講義途中参加が認められたのは、差し迫った危険があったためである。
学園都市内では魔法を禁じる結界がはられていて、魔法による暗殺の危険は低い。しかし、実家ではそうはいかない。
高位魔法を使用されれば手も足も出ないが、せめて魔法の仕組みを理解し、簡単な幻惑や初級攻撃魔法程度は自分で対処できるようになっておいた方がいい。そう、ヴィオーダ将軍に勧められたのだ。
その意味では護身術も必要だが、体力をつけるために以前から講義をとっていたので、目下のところ問題はなかった。
(だけど、入門魔法学Ⅰの教科書って……なんだかおとぎ話を読んでるみたいで、本当に実用性があるんだか……)
手に抱えた薄い書物に目を落とす。
途中参加するにあたって、講義で進んでいるページまでは自主学習させられ筆記試験も合格したのだが、内容は四大元素やら精霊やらで浮き世離れしすぎていた。しかも、実技にはほど遠い。これで、どうやって魔法攻撃をよけろというのだ。
重いため息をつきながら、講義室に入室する。
三十人程度の座席は、ほぼ埋まっていた。最前列のど真ん中しか空いていないので、不本意ながらそこに腰をおろす。
部屋をざっと見まわしてみると、四年生はマリルルカとカノンだけのようだった。一年生か二年生が大半だ。四年生にもなって入門魔法学を選択する者は、まずいない。魔法を志す同学年の生徒らは初等魔法学か、早ければ中等魔法学を学んでいるころだろう。
隣の席に陣どったカノンが、マリルルカをのぞきこんだ。
「マリーさんはこの講義、初めてなんですよね? わからないことがあったら、遠慮せず聞いてくださいね。といっても、僕も一昨日初めて受けたんですけど」
えへへと笑って頭を掻く。
一日違いの出席数で、こんな台詞が言えるほどの何を会得したというのだろうか。マリルルカは呆れて相手にせず、教科書を開く。
講義の準備を終えると、ふと周囲の視線とささやきに気がついた。
最初は見慣れない受講生への好奇心かと思っていたが、それだけではない。生徒たちの視線は、カノンに注がれている。
「……今日も……かな?」
「デノン先生……だから、やる……」
「…とすると、今回は……」
「いや、……だよ!」
ひそひそ話には熱が入り、とぎれとぎれながら言葉を聞き取れた。
しかし、初出席のマリルルカにはどんな話なのか見当がつかない。思わず話題の張本人を窺おうとしたとき、魔法学の教師が入室してきた。
皆が立礼し着席すると、教師はおもむろに手招きする。
「カートン君。前へおいでなさい」
白い眉毛に立派な口ひげと顎ひげの老教師は、まっすぐ伸びた大樹のように姿勢がよい。けれど威圧感はなく、目はいつも細められて好々爺然としている。
指示どおりマリルルカが教壇に立つと、老教師は講義室を見渡した。
「今日からいっしょに学ぶ、マリー・カートン君だ。皆、よくしてあげるように。カートン君、私はデノンだ。よろしく」
「はい。学期途中からですが、どうぞよろしくお願いします」
デノン先生と生徒両方にむけて、お辞儀をする。挨拶が終わると、マリルルカは席へ戻るよううながされた。教壇を下り最前席に着くその数歩で、生徒たちの興味がすぐさままたカノンへと移るのに気づく。
――いったい初日に何をしでかしたのやら。
眼鏡君のことだから、とんだドジを踏んで注目の的にでもなってるのだろう。マリルルカは軽く考えて、板書を書き取るためにペンを持った。
「さて、前回は水の精霊について話したが、これについて説明してもらおう。ウェルズ君」
当てられた生徒があわてて立ち上がる。
「は、はい。水の精霊は四大元素のひとつ、水を司る精霊で、性質は温厚……え、と、女性形態であることが多く、この精霊に属する魔法範囲は主に水がある場所に限定され…
えー、水辺であれば攻撃、防御、共に魔法は使用可能です」
「ダメダメだねえ、赤点だ。予習だけでなく、復讐もしっかりやるように。そんなんじゃ、お先真っ暗だよ」
老教師は、その人懐っこい笑顔からはほど遠い容赦のなさで採点した。生徒たちの間には緊張感というより緊迫感がみなぎっている。
マリルルカが後から聞いた話だが、このデノン先生は学期途中だろうと講義についてこられない生徒は即首切り――単位どころか、受講さえやめさせるという。まだ初々しい一、二年生が真っ向から立ちむかえるような相手ではない。講義室が戦々恐々とした空気になるのは、致し方なかった。




